やわらかい光の中で-82
「奥さんだって。」
魚を調理してくれる店を魚屋のおばちゃんに案内されながら、千鶴が哲也にだけわかるように小さな声で言った。彼は、上目で彼を見上げる千鶴をチラッと見るとにんまり笑顔を作り、
「奥さんだって。」
と、千鶴と同じように小さく囁いた。
2人が乾杯のビールで喉を潤していると、刺身の盛り合わせや一匹丸ごとから揚げにした魚、焼き蟹などが次々と運ばれてきた。最後に海老の味噌汁とどんぶりに盛られたご飯が運ばれてきた頃には、胃袋の限界値が見えていたが、哲也も千鶴も根性でそれらの料理をたいらげた。それから膨れ上がった腹を押さえ、2人は阿嘉島行きの船の出る港まで急いだ。
◇
港の乗船券売り場は、船が出るのを今かと待つ乗船客で賑わっていた。
角に生活用品を詰めたダンボール3つを積み上げ、それに寄りかかりながらコンクリートの床に座り込んで居眠りをしている若者、携帯電話で船の出航時間を陽気に伝えている中年の男性、これから観光で離島へ向うのか、しきりにガイドブックを広げ、話し合っている大学生らしい女の子のグループ、声高らかに笑い合うおじぃやおばぁの集団、それぞれがそれぞれの目的を持ち、ここに集まっている。そして船が出るまでの同じ時間をそれぞれ好きなように過ごしていた。
窓口で行き先を伝え、券を2枚購入した。窓口の女性は慣れた手つきで乗船券を差し出し、出航時間を伝えると
「昨日、低気圧が抜けたので、今日は少し海が時化(シケ)気味だそうです。船酔いする方は気を付けましょうね。」
と、独特の訛りで付け加えた。
2人は空いている2つ並びのシートに腰をかけ、手持ちの荷物の整理をしながら外の眩しく輝く港の風景を見ていた。
なんとなくソワソワして騒々し船の待合室に2人は静かに座り込んでいた。外の輝く海は生気に満ち溢れ、周りの乗船客の顔も活気に満ちていた。コンクリートの建物は冷たい日陰を作り、太陽の熱を遠ざけてくれる。輝く外の世界とは対照的に、静かに凛とした空間を形成しているその建物の中で、彼女は安堵にも似た心境で外を眺めていた。周りの雑音も遠くの方で響いているようなそんな気がしていたのだ。
千鶴は無意識に哲也の膝に手を乗せ、彼は外を見たまま、そっとその手に手を重ねた。
暫くすると、乗船の準備が整ったことを伝えるアナウンスが港中に響き渡った。それまで各々の時間を過ごしていた乗船客達は、のそのそと立ち上がり、誰からともなく同じ方向へ歩き出した。
哲也と千鶴はその一団が移動したのを見計らって、後からゆっくり乗船口へ向った。
彼女達が乗る船は、車も乗せる事ができる程大きく、席は甲板と船内にいくつも用意されていたが、席順は決められていなかった。海が見たければ甲板の席へ、潮風や強い日差しを避けたければ船内へ、満員の場合は席に座れないこともあるらしいが、その場合は通路の邪魔にならないところに勝手に座って良いらしい。
飛行機にはありえない、船らしい緩さが沖縄の情緒を感じさせる気がして、千鶴は好きだった。
哲也と千鶴は荷物置き場にトランクを預け、手を繋いで船内をくまなく散策した。
甲板には観光客風の乗船客が多く、船内には沖縄の人らしい客が多かった。
2人は特に席に着かず、人口密度の低い所を選んで船から海を見下ろしながら出航を待った。