やわらかい光の中で-67
日の当たりにくい山陰にあるその桜スポットは、他の桜が散りかけた今頃が一番の花盛りになる。
日が落ちる頃を狙っていくと、遊歩道の脇にある外灯が美しく桜をライトアップする。
その美しく、幻想的な光景が彼は好きだった。
桜が満開の時期だけに作り出されるその空間の中にいると、現実の嫌なこともストレスも忘れられるような気がした。
千鶴と付き合っていた頃は、毎年この時期に2人でそこへ行っていた。
その前の彼女の時も、その前も…とにかく彼は毎年、そこの桜を見に行っていた。
学生の頃は、桜が散ってなくなるまで毎日そこへ通っていたのだ。
◇
車が断続的に渋滞し始めていた。彼は明らかに緊張していた。
あまり美味しくなかったのもあるが、昼食のラーメンも喉を通らず、不本意ながら残した。
裕美の話もどこか上の空で聞いているような気がしていた。運転にもどことなく集中できない。考えてもまとまらないことを止め処なく考えている気がした。その考えるべきことの中核が見えているようで、見えていないようなもどかしさが彼を包んだ。気持ちを伝えると言っても、彼女に何を伝えればいいのかわからない。
「いや、交際を申し込むのだ。好きだと言えばいい!」
同じ言葉を頭の中で何度も繰りしながら、自分の脳裏に引っかかっているものが何なのか懸命に探していた。
目的地に近い厚木インターを降りた時には、そのモヤモヤは更に色濃く彼を襲っていた。
車の外を見ると夕暮れにはまだ少し早いようだった。
そこで、彼はどこか適当な場所でお茶でもして時間を潰すことにした。頭の中を少し整理したかったのだ。
街道を走っていると小さな古めかしい喫茶店が目に留まった。
駐車スペースに1台も車が停まっておらず、開店しているのかさえ怪しげだったが、この際何でもいいと思い、そこで休むことにした。
店内は重厚な茶褐色の木材で家具も床も統一され、年季の入った床は良質な木材の微妙な柔らかさをスニーカーの下から歩くたびに伝えた。ゆったりとしたクラシックが、眠くなりそうな音量で流れ、良質な空間を演出していた。
いいスピーカーを使用していることが、慎治にはすぐにわかった。いいスピーカーは音量を上げなくても心地よく人の耳に届く。高音の安定感が安物のスピーカーとは格段に違うのだ。低音のぶれも少ない。
高めに作られた天井も音の響き方を考慮した建築構造なのかもしれないと慎治は思った。メニューには聞いたことのありそうなコーヒー豆の名前から、全く知らない豆の名前までズラリと書き連ねてあった。
コーヒーに全く詳しくない彼は、メニューの中の「水出しコーヒー」という項目に惹かれ、それを注文した。
以前、コーヒー好きの辻元が水出しコーヒーは美味いと言っていたのを思い出したからだ。
腕時計を見ると、3時半を少し過ぎたところだった。
窓の外の過ぎさる車に目をやった。進行方向は流れてはいるものの、車数は少なくなかった。
この混み具合を考慮しても、ここから目的地までは30分前後で着いてしまうだろうと予測しながら、日が落ちるのは今の時期だと5時半から6時くらいだろうかと漠然と思っていた。できればこの店に5時くらいまで居たいと、なんとなく頭の中を廻らせてはいたが、彼の思考は完全に集中力を失っていた。
どことなくソワソワして、落ち着くことができない感覚が、車を降りてから更に強まっていた。その原因は自分にあることが明白だったが、自分でもどうすることもできず、イライラは更に募っていくばかりだった。