やわらかい光の中で-64
彼女が置いていった、その月の写真集を捨てようとして止めた。そのまま本棚に戻し、千鶴の事をこんなにあっさり忘れてしまった自分の薄情さに罪悪感を覚えた。
千鶴の物を処分してから、彼は自然と裕美との結婚生活を想像するようになっていった。
勝手な妄想だった。
しかし彼にとって充実した妄想だった。
3度しか会ったことはないが、彼女に非常に好感を持っていた。話していても話やすく、サーフィンをしていても、お互いそれに集中できた。彼女は自分のペースで海に入り、彼も自分のペースでサーフィンを楽しむことができた。
彼女なら、自分の海仲間にも受け入れてもらえそうだし、彼女も彼らを快く受け入れてくれそうな気がした。
水着を着て歩いても寒くない夏になると、海仲間と泊りがけで海辺へBBQをしに行くが、そういう時に意外と男連中は女性に気を遣う。他の仲間の連れてきた女性に対して、多少気を遣うのは当然だが、千鶴を連れて行っていた頃、彼は彼女に気を遣っていた。
強い日差しに長く当たっていると、彼女はすぐに具合が悪くなった。普段では酔わない量のビールでも、気分を悪くして戻したこともあった。
昨年、たまたま恒例のBBQの時、彼女が旅行で日本にいなかったので、彼は独りで参加したが、その方がむしろ、気疲れせずに楽しめた。
裕美にはそういう気の遣い方をしなくて済みそうだと、彼は感じていた。
英語が話せるかはわからないが、向上心も向学心もきっと強い女性だろう。好奇心も旺盛で、海外での生活に不安を感じるタイプの子ではなさそうだ。気配りもできる人だし、なんと言っても、あの辻元が高校の頃から付き合いのある女の子だ。それなりの人に違いない。
慎治の妄想は、日に日にストーリー性を持ち、彼の頭の中を支配していった。しかしながら、付き合ってもいない、まだ気持ちを伝えてもいないような女性との結婚生活を妄想して喜んでいる32歳、独身の自分が滑稽だった。
それでも彼女と近づきたくて、意味もなくメールを送った。何を送ればいいのかわからず、天気や波情報の話をメールでした。メールを送った後、そんな下らない内容のメールを送った自分を後悔したが、彼女から返信が来ると、必要以上に喜んでいる自分がいた。
そして、そんな自分をかわいいとさえ思った。
早く、彼女に会いたいと思うようになっていた。ところが、3月中は仕事で平日に会う時間を作れそうもなかった。コミュニケーション能力アップのために、英会話教室を1日増やしたのだ。休日も、どうも裕美との予定が合わない。
やっとの思いで予定を合わせられたのは、4月になってからだった。
◆
桜も散りかけた4月の第2週の土曜日、慎治は裕美と久々に海に行く約束をこぎつけた。とはいえ、久々だと感じていたのは、慎治の方だけだという事を彼も理解していた。
すっかり裕美との結婚生活の妄想に囚われていた慎治は、その妄想を現実とするために、その日に気持ちを伝えようと決めていた。とりあえず、交際を申し込み、少し付き合ったところで折を見てなるべく早く、結婚の話をしようと、勝手に段取りまで組んでいた。
勿論裕美に断られないことを前提に組まれた段取りだ。
前回同様、彼は先に海に入った。
波乗りが終わるまでは、この日の先のことを考えるのを止めることにしていた。
彼女と今日の約束を取り付けてから1週間以上、毎日どうやって気持ちを伝えるか悩んだが、いい言葉は見つからなかった。
昨日の夜、このままでは眠ることさえできないと思った彼は、これ以上、その言葉を探すのは止めることにした。ただ、海の後に彼女に気持ちを伝えよう、それだけを決めていた。