やわらかい光の中で-63
入る店を彼なりに悩んだが、車が停められてゆっくり話せるところがいいと思ったので、適当なファミリーレストランで、食事をすることにした。
席について程なくすると、彼女はサーフィンの上達法について、彼に熱心に聞いてきた。彼も、彼女が波に乗っている姿を注意深く見ていたわけではないので、答えに詰まるところもあったが、彼女の質問を丁寧に聞きながら、自分の成長段階と照らし合わせ、簡単にアドバイスをすることはできた。すると彼女は、彼の言ったことを吟味するように、なにやら考えながら「今度はそれを意識してやってみよう」と言い、笑った。
しかし結局は、海にたくさん入るしかない、という結論にお互い納得した。2時間ほどゆっくり話して、彼らは帰った。
慎治の家から車で帰る裕美の姿を見送りながら、彼女は向上心の強い女性だと、彼は感心していた。食事しながらの2時間、彼女は殆どサーフィンの話しかしなかった。
思ったように、彼女の情報を引き出すことはできなかったが、そんなことはどうでもいいように、彼は感じていた。
山上裕美という人間に魅かれ始めていたが、同時に、あまりにも短絡的な自分に疑問を感じてもいた。
◇
シャワーを浴びて、水洗いしたウェットを浴室に乾している時に千鶴の最後の言葉を、ふと思い出した。
「私のものは全部捨てて。新しい子ができたとき、前の女の匂いはさせちゃだめだよ。」
彼は、特に何も考える事もなく、まるで動物の本能かのようにそのままにしてあった千鶴の物をゴミ袋に入れ始めた。
小さな袋1つで済む程度の物しかなかった。
あれから2ヶ月しか経っていなかった。あれ以来、彼女からの連絡はない。
彼もまた連絡していなかった。
今頃、旅行から戻って新しい仕事でもしているのだろうと思った。
あの日、あの公園の片隅で、自分の罪深さに涙したことを思い出した。
そしてこの2ヶ月間、その事をただの1度も思い出さなかった自分の情の薄さに驚いたが、あの時、感じた罪深さを感じることはなかった。
他に千鶴のものがないか、リビングを見渡した。
そして本棚の写真集に目が留まった。
月の写真集だ。
群青色の表紙に、大きく蒼く輝く月が写っている。その月の下には、森がある。クレーターまではっきりと写し出されたその月は、今にも飛び出してきそうなほどに輝いていた。
千鶴は月が好きだった。
それに影響され、彼もよく夜空を見上げるようになった。
そして「月が蒼く輝く」という意味が少しわかったような気がした。
彼女の好きな月スポットに3回ほど行ったことがある。
軽井沢の碓氷峠だ。1回目は、彼らがその場所に着いた時、月は西の空に沈む頃で、彼らが見た空には、月はもういなかった。
2回目は新月の日で、そもそも月が出ない夜だった。
3回目は辛うじてその視界の片隅に月が納まったが、南南西に高く上がった月だった。
それでも綺麗だと感じることはできたが、わざわざ高速に乗って来るほどの感動を、彼は味わえなかった。
その帰り道、千鶴は初めてそこで見た美しい月のことを熱く語っていた。黄昏時に月が昇り始め、薄暗い夜空に大きな月が煌々と輝いている、と目を輝かせながら言っていたが、彼はその話を殆ど聞いていなかったのを覚えている。
3回も付き合わされて、しかも、全て不発に終わったことに少し腹を立てていたのだ。
それ以後、彼女にそこに行こうと言われても、頑なに拒んだ。