やわらかい光の中で-58
3日後、高沢に指定された料亭に指定された時間の30分前に着いた。
気持ちを落ち着かせるためにどこかでコーヒーでも飲みながら、一服しようと思っていたのだ。ところが、辺りを見回しても適当なコーヒーショップなど見当たらなかった。その料亭の入り口で煙草を吸うわけにもいかず、彼は当てもなく煙草を吸える場所を探して歩いた。
今日の話の内容は、おおよそ想像がついていた。
昨年の秋口に高沢から言われた、アメリカ総本社でのプロジェクトに関する話だろうと、ほぼ確信していたのだ。しかし、その話が必ずしも自分にとって、いいものかどうかまではわからなかった。
あの会議室以来、高沢からこの件について言及されたことはなかった。
慎治も心のどこかでアメリカ行きを意識しながらも、千鶴と別れたこともあり、更に結婚が遠のいたので、自分には遠い話になったと感じていた。
また、年明けから大きなプロジェクトのリーダーになっていたので、その忙しさで頭がそこに向かなかったというのも事実だ。
しかし、また再び高沢に声をかけられ、今度は常務と直接話すということであれば、慎治のアメリカ行きも遠のくどころか、大きく近づいたのではないかと多少期待もしていた。
それと同時に、その期待が裏切られる恐怖感が彼を襲っていた。
小さな道路を横切り、車の入れない坂道を上がっていくと、坂の途中にベンチがあった。
そしてその横に灰皿が備え付けられていた。その目の前にあった自動販売機で缶コーヒーを購入し、彼はそのベンチに腰をかけた。会社帰りのOLが目の前を忙しなく歩いている。急な勾配の坂道を、ヒールの高い靴を履きながら、よく歩けるものだと彼は感心して、その姿を眺めていた。
東京は意外と坂道が多い。慎治のマンションのそばにも、緩やかな坂が永遠と続く道がある。以前、自転車で近くを散策したことがあったが、その帰りにその坂道を永遠と登り続けさせられた。その時「行きはよいよい、帰りは怖い」というフレーズを心の中でずっと繰り返しながら、30分近く、自転車をこいだ記憶が蘇ってきた。その次の日に太股が酷い筋肉痛になったのを覚えている。
そして、ふと、あの辺が、先日辻元に紹介された山上裕美の住む辺りだと思った。
一服が終わり、時計を見ると、そろそろいい時間だった。
指定された時間の5分前に店に行こうと決めていた。
あまり早く着きすぎて、高沢と杉山が慎治に聞かれたくない話をしていても気まずい。しかし遅れていくことは有得ない。5分前に店に着くのが一番適当な時間だと彼は考えていた。
和服の仲居に案内されて、その個室に着いた時には、高沢と杉山は既に席に付いていた。
高沢は慎治に「ビールでいいか」と聞き、そばに控えていた仲居に、ビールと料理を運んでくるように指示した。
全室個室作りのいかにも高そうな日本料理屋だった。
日本家屋独特の引き戸を開き中に入ると、御影石が順不同に敷き詰められた広い玄関があり、その奥の窓ガラスの向こうに、それほど大きくはないが庭があった。その庭を挟むようにコの字型に建物が建てられていた。
案内された個室からは、美しい日本庭園が見られるようになっていたが、他の部屋は見えないように工夫されて、庭が造られていた。料亭の敷地内は、ここが東京であることを忘れてしまうほど静かだった。
夏には、この庭園が東京の蒸し暑い夏を涼しげに演出してくれるだろうと思った。庭の奥に鎮座する池の脇には、小さいながらに美しく形付けられた紅梅と白梅がかわいらしい花を付けていた。その奥に椿の垣根も見えた。池を挟んで梅の反対側には紅葉もある。春夏秋冬、日本の四季を愛でられる庭造りになっていた。
通された部屋は、それほど広くはなかったが、商談するにはちょうど良い大きさなのかもしれないと慎治は思った。時には、ここに芸者を呼んで金のかかる遊びを楽しむ役人や会社役員もいるのだろうかと、慎治は勝手な妄想を膨らませた。