やわらかい光の中で-100
「私のものは全部捨ててね。新しい子ができたとき、前の女の匂いはさせちゃだめだよ。女ッてけっこうそうゆうの見てるんだから。」
食事の後片付けをしながら、流れそうになる涙を押さえ込むために苦し紛れに出た言葉だった。彼女はできるだけ穏やかな口調で呼吸を整えるように言った。
慎治は彼女の横で一瞬立ち止まったが、彼女の事を振り返ることはなく深く頭を垂れて、何かを飲み込むように目の前のドアノブに手をかけた。彼女は視界の片隅の慎治を強く意識しながら、顔を上げることなく、ひたすら目の前の食器に顔を向けていた。
そして、ゆっくりとドアが閉まり、無機質な金属音が彼女の耳に届いた。
千鶴は顔を上げ、2人の間に立ち塞がるドアに慎治の残像を見た。
彼女は目の前の蛇口を勢い良く捻った。
ドアに映った彼の背中は真っ直ぐ天に向って伸び、確かな足取りで振り返らずに遠くへ消えていった。
それは、彼女が好きだった凛とした慎治の姿そのものだった。
そして彼女は、ステンレスに強く叩きつける水音の影で、久しぶりに大声を上げて泣いた。
時が経ち、偶然どこかで再会しても、お互いの隣には別の人がいた方が幸せだと、彼女は理解していた。
彼女の複雑に捻じ曲がった愛情を受け止めてくれた慎治の優しさと責任感は、2人に3年という月日を与え、その3年間は、2人が無限に交じり合うことのない平行線上にいる事を充分教えてくれた。
阿嘉島で出会った少年の頼りない瞳とか細い声が、彼女の背中を少し押してくれた。挨拶をして走り去るその後姿に勇気をもらった。
その少年の幼気な眼差しに自分の中のどす黒い塊は映したくなかった。
彼女は自分の中の毒を吐き出さなければならなかった。
そしてその毒は誰にも知られることなく、自分だけが被ってどこかに仕舞い込まれなければならなかった。
それが、慎治に最後にしてあげられる思いやりだと思ったからだ。
阿嘉島の少年が、千鶴に、慎治を解放してあげる勇気をくれたのだ。
慎治と別れてから派遣社員生活を辞め、正社員雇用での就職活動を始めた。
34歳の特に職歴もない女子の就職はそう簡単には決まらなかった。派遣社員を継続しながらの就職活動は、肉体的にも楽ではなかったが、彼女は充実していた。
10社履歴書を送って、1社面接までこぎ付けられれば良い方だった。何社に履歴書を送ったかわからない。面接まで行っても落とされた。
やっと紹介予定派遣で就職できたのが、今の会社だ。決まるまでに半年以上かかった。
そして、哲也と出会った。
彼は慎治や直樹とは全く違うタイプかもしれない。それでも何か似た雰囲気を感じることもある。
直樹や慎治の時のように哲也に憧れる気持ちはないけれど、彼らといた時よりもずっと無邪気に笑っている自分がいる。そして、哲也も彼女に無邪気に笑いかけてくれる。その現実に、彼女は今までにない幸せを感じていた。穏やかに流れる日常に満足しているのだ。
思い描いていた自分の未来とはかけ離れた現実かもしれないが、彼女は無理せず生きている今の自分が好きだった。