パラドックス──ゲーム理論より──-3
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執務室の扉が開いた音に机上の書類から顔を上げると、小路征夫が我が物顔でずかずかと入って来る。ノックの一つもしないのか、この男は。大体、無礼にも程がある──とは思ったが、此処に来るという事は事態が進展したのだろうか。しかし、いくら何でも早い。いや、寧ろ音を上げたとう可能性もある。見た目にも、飽き性の気が確認出来る様な男だ。そうに違いない、と自分自身を納得させる。
「何もかも吐いた、口述筆記は任せる」
席についたまま身構えていると、テープレコーダ本体とテープ数本を重ねて提示された。五時間程度しか経っておらず、自分の無能さと彼の優秀さを同時に噛み締める。一体、何に頼ったのだろうか。
「それから、鍵だ。盗ってはいないが、一応確かめると良い」
鍵は無造作に、テープレコーダの隣へと投げる様に置かれた。
「本当は、もう少しかかると思っていたのだが──目測を誤ったな。折角持って来た書物が、無駄になってしまった」
「では、鞄の中に入っていた物は……」
「それらと書物と着替えだが。それ以外、一体何を必要とする」
馬鹿と天才は紙一重、とは言うが。彼はテープレコーダとカセットテープ数本を指差してから、いくらか軽くなった鞄を持ち上げて見せた。
「自分はてっきり、自白剤や拷問の道具かと」
「自白剤や拷問は、好きでは無いのでね。強制力はあるが個人の妄想や妄言に振り回されたり、中毒症状に陥ってしまうのは非常に面倒だ。ただ、理不尽な暴力を加えるのは嫌いではないよ」
余計な事まで聞いた様な気がするが、敢えて触れない事にする。
「それから、事実関係が確認出来るまで滞在願えますか」
「ああ、勿論構わない。それより、腹が減った。美味い鮨が食いたい」
「解りました」
答えると、再び執務室の扉が開く。後方へ撫で付けた長い髪に整えられた髭、幾つか勲章の鏤められた制服が目に映った。彼を招いた張本人、鴻原満殿──その人である。鴻原殿は白衣に近付き、深々と頭を下げた。小路征夫とは一体、何者なのだろうか。
「小路博士、お久しぶりです。例の件では、お世話になりました。本来なら某が出迎えるべきでしたが、公務に追われてしまい誠に申し訳ない」
「電報を拝見致しましたので、その点は大丈夫ですよ。似鳥くんがよくやってくれました。流石、あなたに仕込まれただけはあります」
「ははは、お世辞の上手い方だ」
親密そうに、握手を交わす鴻原殿と小路博士。博士であり、鴻原殿とは既に知り合いなのかと謎は深まるばかりだった。恐らく、小路博士は自分の知らない鴻原殿を知っているのだろう。すると、鴻原殿はテープレコーダや鞄を見て「これからですかな」と訊いた。その質問に、小路博士は澱み無く答える。
「いえ、終わりました。そのテープの事実を検証して、納得される内容ならば帰ります」
「おお、有難い」
とにかく、この事件で彼の株は更に上がった事だろう。この様に鴻原殿が何度も頭を下げる姿を、自分は初めて見た。
「何と礼を言ったら良いか……。本当に、あなたは全能な方だ」
ぴくり、とその言葉に眉を動かす博士。その不快だと言わんばかりの表情で、悩ましげに溜息を吐く。
「わたしは、全能ではありませんよ。全能とは、矛盾に溢れています。全能とは、不能を指している様なものです」
「これは失礼しました、小路博士」
しかし、鴻原殿の謝罪を全く気にも留めず、思い出したかの様に話を食へと切り換えた。
「ああ、そうだ鴻原殿──わたしは鮨が食べたいのですが、良い店を知りませんか」
「それならば、夕食をご一緒しましょう。似鳥くんも来なさい」
「は」
部下を呼び、後を任せると自分は運転手を名乗り出た。