エンジェル・ダストLast-5
「あなたの噂は李から聞いてます。私もたまには、絶世の美女と食事をしてみたいのでね」
気さくな笑い声をあげた後、──では、1時間後に─と云うと電話を切った。
受話器を戻すクーは拍子抜けしてしまった。
軍事機密の受け渡し。もっとピリピリとした緊張の中で行なわれると思っていた。
それがフタを開けてみれば、周りのことなど憂慮する気配さえ無い。
──しかし、この方が敵の目をごまかせると考えたのだろう。
クーは気持ちを切り替え、キャリーバッグを開いてガーメントケースを取り出すと服を着替えだした。
キャサリン・クーこと蘭英美と段取りを交した周強民は、すぐに李海環へと連絡を入れた。
「…問題ありません。彼女は私の指示に従いました」
周の報告に李は満足気に頷いた。
「では周、よろしく頼むよ。すべては君に掛かっているからね」
李と周は、実際に同じ町の出身で幼年の頃を知っている中だった。
だが、周は裏社会の人間ではない。民工──ミンゴン─として働いていたのを、李がこのために雇い入れたのだ。
もうひとつの作戦──自分の手を汚さずにプラントされたエージェントを無力化する。
塞は投げられた。事ここに及んでは、恭一の作戦に頼るしかない。
李は胸の内で祈るのだった。
1時間後。クーは下のレストランに向かった。普段ならドレッシーなモノをチョイスするのだが、場合が場合だけに今日は、あまり目立たぬパンツルックを選んだ。
周は既に来ていた。ウェイターによりテーブルに案内されたクーは、にこやかな表情で会釈する。
「ミスター周。初めまして、蘭英美です」
その美艶且つ気品溢れる様に、周は感嘆の息を吐いた。
「こいつは驚いた。李のやつが自慢したがるはずだ」
周は席を立つと満面の笑みで両手を広げる。──中国人的でないジェスチャー。
そんな大袈裟さに蘭は優しく微笑んだ。
「そう云っていつも口説いてらっしゃるのですね」
「とんでもない。女性を口説くなんて…でも、あなたは別だ。口説かなきゃ失礼にあたりそうだ」
「そういうところ…大陸的じゃありませんね」
クーは、注意深く周という男を観察する。人間、嘘をついていれば必ず言葉の辻褄が綻びていく。
「商売上、ヨーロッパに長く居るためでしょう」
「エッ?あなたも」
周が頷いた。
「李のおかげです。私の会社は、イタリアやスペイン、ギリシャ、フランスなどで食料品の買付けを行っています。
中国沿岸部の都市には、高級食材を欲しがる富裕層がたくさん住んでますから」
「もしかして、周さんの会社って…」
「そう、ビッグ・アップル社です」
李が出資する会社のひとつ。ビッグ・アップル──ニューヨークの意─という名前で憶えていたのだ。
クーの顔が一気に緩んだ。