魔性の仔A-8
講文社文芸編集部
「お?いッ早紀」
編集長の大崎は広いフロアで声を張り上げた。その手には数枚の書類が握られていた。
「オイ早紀ッ!早紀ったらッ!」
大崎の呼び声が響く中、早紀はデスクで頬杖をついて気づいた素振りも見せない。
「…まったくッ」
苦い顔で大崎は立ち上がると、早紀のデスクに近づいた。
「おい早紀?」
肩を叩かれ、ようやく気づいた早紀は、立っているのが大崎だと分かると慌ててデスク上の書類をひっかき回す。
「あ…ら、来週の予定ですね…」
「違うよッ、さっきの原稿、間違いだらけだ。修正しとけ」
大崎はバサッと音を立てて早紀のデスクに原稿を置いた。
「どうかしたのか?目は赤いし、仕事に身が入ってないし…いつものおまえじゃないな」
「なんでもありません。すいません、すぐに修正します」
早紀は表情を硬くすると、大崎が置いた書類を手に取ってパソコン画面に向かった。
ぎこちない──何か隠しているような。
大崎はため息を吐いて立ち去ろうとして、何かを思い出したように振り向いた。
「早紀。後で刈谷に連絡しといてくれ」
「な、何をですかッ」
──刈谷─の名を聞いた早紀は素早く反応した。その目は大崎を睨みつける。
「中尊寺先生のアウトラインだ。途中でもいいから欲しいんでな」
「分かりました…後で連絡します」
大崎とて伊達に長く生きてる訳じゃない。早紀の目を通して──何が─あったのか気づいた。
だが、彼は他人のプライベートに干渉しない主義だった。要は仕事に支障を来さなければ、何をやっていようが自由というのが大崎のスタンスだ。
大崎は──ちょっとタバコ吸ってくる─と云ってフロアを後にした。
刈谷のクルマから降りた雲水姿の男は、杣道を30分ほど登って村へと辿り着いた。
「…やっと帰り着いたか」
男の顔には、昔と変わらぬ村の姿に哀愁の念を募らせる。
春の柔らかな日光に照らされ、村全体が輝いて見えた。
「ああ…まずは長に挨拶をせねば」
男は、村の田畑を畦を沿うようにうねる道を歩き出した。
道を歩き進め、カヤ吹きの家々が連なる集落を抜けて行くと、その先に圭藻土の堀で囲まれた瓦屋根の屋敷が見えた。
そこは寺院だった。
男は堀の中央に築かれた門を潜った。──ジャリ─と庭に敷かれた玉砂利を踏みしめて、左奥にある母屋へと向かった。