「鬼と姫君」2章A-1
童と楽しそうに語らう姫を、そっと伺う者がいた。
庭の生垣の外である。
男が二人、木々の間を透かして様子をみている。
「なんと。あれが昨今巷を賑わす、虫愛づる姫か」
仕立ての良い、狩衣姿の若い男が囁いた。
言葉には驚きが含まれているものの不快感ない。
涼やかな面立ちで、目尻には小さな黒子がある。
そのせいで一層切れ長の瞳に艶を含ませていた。
「噂通り、あのように気味の悪い虫を触っておるわ」
先程の男とは異なり、連れの者は不愉快さを滲ませる。
こちらはがっしりとした体躯に、ぎょろりとした瞳、大きな鼻と厚い唇を備えており、四角い顔にのる部分の全てが大振りだ。
「よく見てみろ。化粧こそしていないが、美しい姫だ」
確かに目を凝らすと、常の姫君たちのように眉を剃らず、歯も染めていないが、素顔のままの姫は清らだ。
透けるように白い肌が、春の光の中で一層輝いてみえた。
瞳は大きく、黒目がちで口元は上品ながら甘やかに、紅く色付いている。
細面の男、右馬佐は恐らく他の誰よりも早く、虫愛づる姫を見出したことを幸運に思った。
「中将、決めたぞ。文を送る。そして我が屋敷に迎えるぞ」
中将と呼ばれたぎょろ目の男は呆れはてた。
「何を申しておるのだ。そなたには既に奥方がおるだろう」
この男、右馬佐の熱病がまた出たと中将は苦々しく思った。
右馬佐は、整った容姿と確かな血筋で、女の高きも低きも騒がせ、浮名を流していた。
毎夜、花から花へと蝶の如く女たちの間を舞っている。
しかし、一度夢中になる女が現れるとその執心も尋常ではない。
ただ、この熱病は冷めるのも早く、散々愛された女が右馬佐の、手を返したような無関心さに嘆く姿を一度となく中将はみてきた。
右馬佐の妻もその一人だ。
深窓の令嬢で、やんごとない家柄と花のように可憐な美しさを兼備えた女だった。
噂を聞きつけた右馬佐は熱心に文を送りつけたが、最初は歯牙にもかけられず、連れない扱いを受けた。
だがしかし、熱心に文を送り、言葉を尽くした右馬佐にほだされ、とうとう姫は面会を許したのだった。
実際会ってみると、右馬佐の貴公子然とした涼やかな様子と細かな気配りに、姫の方が熱を上げた。
そうして顔を合わせてから二十日と経たずに、婚儀が整ったのである。
しかし、はれて夫婦となった途端に、右馬佐の感心は薄れてしまった。
婚儀のはや七日後には再び女たちの間を飛び回るようになり、妻の屋敷を訪れることもなくなったのである。
夫であろうと慣れ親しんだ男が、女のもとへ通わなくなることは珍しいことではないが、それにしても憐れなのは妻であった。
散々に陸言を囁かれ、夫婦にもなったのに、蜜月はあまりにも短いものだった。
毎夜、訪れる気配すらみせない夫を恨み、泣き暮らしていると聞く。
中将は先ほどみた右馬佐の妻を思い出す。
どうにかして夫を連れ戻して欲しいとの切実な文を受けとり、思い切って屋敷に顔を出したのだ。
妻女は、始めから終いまでさめざめと泣き通した。
「何も贅沢は申しません。ただ、一言お声だけでもお聞きしたい…けれど、今は文さえもこない有様です」
そうだろうと、右馬佐と供にいることの多い、中将には手にとるように分かる。
昨夜も、難攻不落の未亡人と評判の高い女のもとへ行っていたはずだ。
簾越しからも分かる大きな瞳に、雫を溜め、声を震わせている。
時々混じるため息は嫉妬と寂しさ、そして絶望が含まれているよう聞こえた。
妻女は右馬佐と出会うべきではなかったのだ。