「鬼と姫君」2章@-1
うごうごと、温かな手のひらを這う芋虫を無数の眼が追っている。
芋虫はそんな視線にも気付かず、懸命に進む。
その瑞々しい緑色は、春の明るい日差しの中でより鮮明に映る。
人の手を加えずこのような見事な発色が出せるのだから自然界とは不思議だ。
芋虫を取り囲む童の一人が好奇心に負け、そっと手を触れると、思いがけず柔らかい。
「この緑色の虫が、やがて蝶になるのです」
芋虫を這わせていた手の主がそっと呟いた。
一体、この虫の何処からあの可憐で薄く、それでいて見事な模様の羽が出てくるのだろう。
白い手をゆっくりと進む芋虫にはしかしまだ、変化の予兆さえ認められなかった。
何事も外側からだけではそのもののの本質は捉えられない―。
これが、白い手のひらの主、16才になった安擦使大納言の一の姫の持論だった。
その証拠に、年頃の娘にもかかわらず、眉も剃り落とさず、お歯黒もつけていない。
姫はあるがままを好んだ。
それ故、身を着飾ったり化粧を施したりと、若い女人が喜びそうなことには見向きもしない。
代わりに動植物を愛でた。
こうして、素足のまま屋敷の庭に下りては、虫などを捕まえてはとっくりと観察するのである。
無論、周囲の者は閉口した。
侍女たちは姫の捕まえる虫を気味悪がり、何度言っても身を整えない主に使える我が身を嘆いた。
恐ろしがる侍女のかわりに、姫の周りには近隣の男の子が集まった。
優しく自然の摂理を説き、少しも分け隔てない態度で接する姫の人気は高い。
珍しい虫などをみせると、大層喜んでくれるので尚更だ。
両親が苦々しく思うことは、この上ない。
妹のニの姫も、姉の奇行ぶりを常々迷惑に思っていた。
姉の良くない評判のせいで、自分の行く先に傷がつくと思ったのである。
ニの姫は、何とか父親の安擦治の大納言より、位の高い殿方と結婚するという強い志があった。
それは両親も同じで、はや一の姫の良縁は諦め、ニの姫へとその焦点を定めつつある。
黄昏時。
闇が薄く漂い始め、全ての輪郭をぼんやりと霞めている。
一の姫は部屋の灯りを点そうとしたが、少し考えてやめた。
まだ早い。
けれど、真の闇に包まれた夜より、この黄昏時の寂しさは一体何だろうか。
暖かく、明るい昼の日の光が失われる儚さか。
それとも、得体の知れないものを連れてくる夜の闇に対する怖れか。
薄暗い部屋には、姫一人きりで侍女もいない。
心細くなって文机に向かう。
最近は年頃のせいか、それとも姫の奇行を面白がってか幾足か文が届くようになった。
顔も知らない相手から届くことが不思議で、中を読んでみるが興をそそられるものは一つとなく、いまだ返事を認めたことはない。
そんな姫の様子に周囲はやきもきした。
姫の奇行を知って尚、文をくれる強者を大事にして欲しかったのだ。
今はまだいいが、選り好みしていれば先はどうなるか分からない。
しかし、そんな周囲の心配を余所に姫は、最近になると文を開こうともしなかった。
やはり文字だけで、相手の本質は掴めるはずもないのだ。
例えそれが、侍女たちの噂話付きでもー…。
そんな姫でも自ら筆をとることはあった。
今のような黄昏時の人恋しいときや、思いがけず嬉しいことがあったとき、伝えたいと思う人がいた。