〜prologue〜-1
鬱蒼と繁る木々や下草。わずかに広がる平坦な隙間を切り拓いて造られた山道が、山肌をへばり付くように沿って先に伸びている。
道の両脇から生えた、ブナやクヌギの広葉樹が成長して出来た枝葉のトンネルの中を進んで行く。
織り重なる葉の隙間から、キラキラ光る木漏れ日や山の匂いに、河野雛子は表情を緩ませていた。
「ねえ、おじさん。あと、どのくらい?」
トラックの助手席から雛子は運転手に訊ねる。山道に出来た轍の深い窪みにタイヤを取られ、トラックはガタゴトと跳ね揺れた。
雛子は、跳ねる身体を抑えつけようと手すりにしっかりしがみ付く。
運転手は、暴れるトラックと格闘しながら雛子に答えた。
「そうさなあ…あと、30分は掛かるかなあ」
「まだ、そんなに?」
「この山…越えて谷を…下った先…だからなあ」
──あ〜あ。これが山の散策ならどんなに楽しいか…。
雛子は、新緑のけぶる山道を進むトラックの中で、憂鬱な気持ちになった。東京からの赴任先が、まさかこんな僻地とは夢にも思わなかったからだ。
『a village』
昭和6年。世界大恐慌の翌年に雛子は生まれた。
彼女に両親、それに兄からなる家族は、戦時中の昭和18年、東京を離れて長野に疎開した。──雛子12歳の頃だ。
そして、その2年後に終戦の玉音放送を聞いた。
その疎開先に落ち着いた昭和18年の暮れ。家族団欒の中で云った父親の言葉を雛子は今も胸に刻んでいる。
──日本は戦争に負ける。
父親は小学校の教諭だった。
彼女にとって父親は大好きな存在であり、絶対的なモノだと思っていた。
しかし、その言葉を聞いた雛子自身、鵜呑みには出来無かった。
ラジオから聞こえてくる軍のラジオ放送からは、日本は朝鮮、支那、台湾、フィリピン、シンガポールなどの発展途上な国を、欧米列国から救い出し、大東亜共栄圏を築いてアジアに、王道楽土をもたらしてくれるのだと思っていたからだ。
だが、父親は確信に満ちた言葉で云い放った。
──庶民の生活を支える食品や燃料が配給制となり、町中にある鉄までが兵器として必要とされる状況下を考えれば、日本はすでに物資不足にある。これひとつ取っても日本は負けるであろうと。
その2年後。いみじくも父親の先見は当たった。
広い座敷の鴨居には、祖先の遺影と天皇陛下の写真が飾られていた。そのそばに置かれたラジオに家人や近所の大人達が頭を垂れ、陛下の御声を聞いていた。
陛下がお告げになる終結宣言に、ある人は頭を垂れて涙を流し、ある人は嬉々とした顔をしていたのを雛子は鮮明に憶えてる。
その終戦を迎え、父親は再び団欒の中で伝えた。
──これから、新しい国作りが始まる。そんな中、必要なのは教育だ。日本の未来を担う子供達にこそ、新たな価値観を教えねばならん。
14歳だった雛子は、論じる父親を尊敬した。以前の先見の言葉を聞いた彼女にすれば、父親の言葉は天皇以上に絶対なモノだった。
そして彼女は、いつしか父と同じ道──教師の道─を歩みたいと思った。