DEAR PSYCHOPATH−10−-1
「ケイコさんはお砂糖、幾つですか?」
笑顔の鈴菜が、角砂糖の入った丸いビンを振りながら言った。
「ああ、私、砂糖入れないの」
「そうなんですか?」
少し残念そうに、それをあった場所へ戻す。
「あ、それじゃあ・・・」
また何かを思いついて、鈴菜は手のひらをならした。けれどそれは、彼女が行動に移ろうとした所で止められた。
「落ち着いて」
という、ケイコさんのたしなめるような一言だった。
「あなたが動揺して落ち着けないのは分かるわ。でもここはあえて落ち着くふりをしていて」
彼女は付け足して言った。鈴菜が今までつけていた笑顔の仮面の下には、不安を絵に書いたような、今にも泣き出してしまいそうな顔が隠れていた。仮面を取り払った彼女は、結んだ唇を振るわせて、必死に何かを堪えている様子だった。
さっきまでのあのはしゃぎようが、まるで嘘のように感じられ、それはかわらずともケイコさんが『ひょっとして鈴菜さんも二重人格なのでは』と、錯覚してしまう程だった。
「さぁ、とにかく座って。説明するわ」
ケイコさんは一度立ち上がり、鬱病患者みたいになっている鈴菜の肩を優しく抱きながら、彼女を引かれた椅子の横まで連れて行った。鈴菜は力なくそこへ腰を下ろすと、何年も昔のことを思い出したようにふと、顔をあげた。
「ああコーヒーね。待ってて、私が持ってくるから」
そう言ってケイコさんが、コーヒーカップの置いてある流し台へ向かうのと、鈴菜が震えた声で彼女を呼んだのとは、ほぼ同時のことだった。背中からの声に、ケイコさんは立ち止まり、行き着いた流し台の縁に両腕を立てたまま黙した。
振り向きはしなかった。多分、鈴菜は泣いている。と分かっている上での、彼女なりの優しさだったのだろう。鼻をグスッとすすりあげ、涙の絡まったような声で鈴菜は言った。
「何で・・・どうして忍があんな大怪我しなきゃいけないんですか?あの綺麗な男の人と会ってから、忍変わっちゃって・・・。全然私と会ってくれないし、電話はよく来たけど、私が忍のアパートに電話するといつも留守だったし。そんな日が続いて、今度は、こんな・・・血だらけになった。肩も骨折もしている、みたいだし・・・一体彼の身の回りで、何が起きているんですか?あなたたちは一体何者なんですか?忍がああなっちゃったのは、あなたたちが関係しているんじゃないですか?」
力強く、責め立てるようなきびきびした口調だった。けれどそれが、胸の奥から沸いてくる涙を必死に堪えるためのものだということをケイコさんが知っていた。鈴菜は語尾に近づくにつれて、細く、消え入りそうな声に変わっていった。
ケイコさんは長いため息をついた後で、「そうね」と静かに呟いた。
「でもね鈴菜さん、これだけは分かってあげて」
さっきの自分とためをはるくらいの力強い口調に、鈴菜は幾分驚いた様子で顔をあげた。
「彼が頑張っているのは・・・多分、あなたのためよ」
まただ。僕は唇を噛み締めた。いつの間に瞼をとじたのだろうという疑問を、ヘンリーという名の矢が追い抜き、僕に、突き刺さるような刺激を与えた。僕は低く呻き声をあげた。刺激のせいじゃない。またか、というものこれで何度目かになる悪夢へのうんざりした気持ちと、再び幕をあげた殺人劇への恐怖だった。
『恐怖』
言葉にすればたいしたことのないそれは、実は人間一人を壊すのに十分な効力を持っている。僕自身、それを経験しているのだから間違いない。けれどその恐怖は、あの頃の・・・そう遠くはないあの頃のそれとは全く違っていた。以前とは比べものにならないくらい程凶暴に、鋭利に、それでいて驚く程したたかに僕の内面を傷つけていく。
草原はいつもと変わらない風に撫でられていた。
ただ一つ風景の中で変わったと言えば、すぐ近くに年期の入った大きな風車が二つ並んでいるということ。その下には見たこともない色とりどりの小さな花々が植えられているということだ。
「綺麗だぁ!」
大きく口を開け、さっそくベッキーが感嘆の声をあげる。