だから、世界は美しい-4
「あんなに悪くなってたんだ」
声を落として喋ったつもりだったのに、長い廊下に僕の声が響いた。親父もお袋も、僕よりも更にうんと声を潜めて囁く。
「つい最近までは元気だったのよ」
「倒れる前は毎日普通に絵ばっかり描いていたのにな」
それから親父の車に乗り込んで帰路を辿った。
親父達にも話したいことは色々あったけど、なんだか口を開く気にはなれなくて。親父とお袋の会話を耳にしながら、ぼんやりと流れ行く景色を眺めていた。
「……じいちゃん、かなり危ないの?」
二人の会話が途切れた時に、終始心の中で渦巻いていた疑問を吐き出した。
聞きたくなかったけれど、聞かなければいけない。そんな気がしたからだ。
「……まぁ、そういう覚悟も必要だろうな」
もう歳が歳だから、と親父は続けて、そのまま静寂が襲う。
僕はまた景色を眺めた。
確かにじいちゃんはもう歳だ。なんたって昭和一桁生まれの人間だから。
教科書やテレビでしか知らない戦争を実際に体験して、高度成長期だってバブル経済だって、色んな出来事をじいちゃんは経験している。
きっと僕がこれから先どんなに長生きしたって体験出来ない時代を、じいちゃんは生きてきた。
■
帰宅後、お袋は慌ただしく夕飯の準備を始めた。
帰郷する前は心の片隅で、久々の地元だから夜は友人達と出掛けようかと考えていたが、今ではすっかりそんな企みは消え去っていた。
「悠人、うちで夕飯食べるでしょ?」
言いながらお袋がテーブルに皿を置く。湯気がもうもうと立ち上がる。
四ヶ月ぶりのお袋の料理は野菜炒めで、何故だかちぐはぐな味がした。
歯ごたえはきちんと野菜炒めなのに、味がしない。懐かしくて美味しくて、舌はちゃんと味覚を伝えているのに、霞掛かった頭がその信号を上手く受け付けない。
「明後日には帰るの?」
お袋が箸を動かしながら僕に聞く。
「うん、授業あるし。バイトも連休だけ休み貰ったから」
「そう。ねぇ……大学の事おじいちゃんに教えたら?」
「……まぁその内ね」
いつもよりも格段に口数の少ない食卓で夕飯を終える。無意識に足が向かった先は、やっぱりじいちゃんの部屋だった。
床には使いかけの鉛筆や絵の具が散乱していて、じいちゃんは倒れるまで筆を掴んでいた光景が目に浮かぶ。
その隙間を縫うように、唯一侵略を受けてない布団へと向かい、その上にだらしなく倒れこんだ。