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 昼間は清楚な白い櫻の花も夜には妖艶な表情を見せることがある。
 しかし、夜櫻とは美しいものだが、賑やかな酔客が溢れていれば風情も半減するものだ。
 N県K市という所に水神ヶ沼と呼ばれる静かな沼がある。
 この沼には水の神が祀られており、小さな祠があるのだが、水の神というだけでその本地や来歴は定かではない。
 一説には祠の下に鬼国に通じる穴があり、水神の正体は鬼ではないかとされている。
 そして、この沼のほとりには見事な櫻の木があり、地元の人間は鬼御前の櫻と呼んでいた。
 民族学者の叔父からこの話を聞いた蝉丸零(せみまるれい)は興味を持ち、大学が春休みになるのを待ち、ツーリングがてらN県へと向かった。
 櫻が鬼御前のと呼ばれる理由は地元民でも知る者は少ない。
 しかし零が叔父から聞いた話によると次のようなことだと言う。
 とある貴族の青年が絶世の美女を妻にと探し求め旅をしていた。
 そして美しい媛が鬼国にいると聞き及び、この沼の穴を通り幽世(かくりよ)へと向かった。
 鬼国には噂以上の美しい媛がおり、青年貴族はその媛を連れて顕界(うつしよ)へと戻った。
 しかし、媛を取り戻そうと鬼達が追って来るのを恐れた貴族は穴を埋め、そこに祠を建てた。
 ところが媛は病に倒れ、やがてこの地で息を引き取る。
 青年貴族は嘆き悲しみ、せめて鬼国の近くに弔おうと沼のほとりに媛を埋めた。
 そこから生えてきたのが鬼御前の櫻だという。
 櫻の樹齢から言って直接、鬼の媛と関係はないようだが、この話を知るものが鬼御前の櫻と呼ぶようになったのだろう。
 地図を頼りにN県までやってきた零は、意外にすぐ、御前櫻のある水神ヶ沼を見つけた。
 沼は郊外にあり、有名な観光地でもないので人の姿もあまり無い。
 すぐ隣に公園があり、零はそこに愛馬ザンザスを停め、荷物の中からカメラを取り出した。
 実際に沼を訪れ、櫻を目の前にすると、その神秘的な威容に圧倒される。
 山裾の木々の中にぽっかりと口を開ける黒い沼。
 そのほとりに立つ大きな櫻の木は四方に枝伸ばし、白く清楚な花が埋め尽くすように咲いている。
 木の幹に立つとまるで空一面に櫻が広がっているようだ。
 零は写真を撮るべくカメラを手にしているのだが、木々のざわめきの中、幽玄の世界に思わず立ち尽くした。
 すると、零の目の前に美しい鬼国の媛が現れた。
「お兄さん、カメラマンなん?」
 一瞬、何のことか分からずに首を傾げる零。
 媛は戸惑う零を見て眉根を寄せた。
「ごっつ、良いカメラ持ってるさかい、カメラマンかと思うたけど、もしかして危ない人?」
 その言葉に零は我に返り、目の前の少女をよく見た。
 髪の毛の長い可憐な少女ではあるが、淡い桜色のシャツにデニムのスカートと、媛と呼ぶには些か現代的な格好だ。
「あ、いや、鬼御前が現れたのかと……」
 少女は零の言葉に破顔した。
「キャーッ、お兄さん、口上手すぎ。そやけどウチ脱がへんで」
 照れ笑いと共に身悶える少女。
 どうやら鬼御前と見間違ったのは軽率だったようだ。
「僕はカメラマンじゃないよ。ツーリングでこの鬼御前の櫻を見に来ただけだよ」
「ああ、そこの公園に停めてあったバイク、お兄さんのなんや。寝袋とかあったけど、もしかしてあの公園に泊まるつもり?」
 少女の問い掛けに、カメラを見せて頷く零。
「うん。夜櫻もカメラに収めようかと思ってね。幸い、近くに街灯も無いし、シャッターを開けておくと面白い写真が撮れるんだ」
「ふぅん。どんな写真が撮れるのん?」
 少女に尋ねられ、零は困惑した。
「あ、いや。口で説明するのは難しいよ……」
「そしたら、写真出来たら見せて」
「じゃあ、現像したら送るよ。えっと……」
「ウチの名前はすずね。六道鈴音(りくどうすずね)」
「僕は蝉丸零」
「ほな零さん、写真、楽しみにしてるし」
 少女は手を振り、笑顔でその場を後にした。
 住所を聞き忘れたことに気が付いたのはしばらくしてからのことだった。
 ともあれ、日が暮れるまでにはまだ時間があり、零はバイクでコンビニを探すと簡単に食事を済ませて沼に戻った。


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