きみきみ さくらに ねがいごと-1
温暖化というやつだろうか、三月上旬だというのにこの暖かさ。
普段なら三月の終わり頃に花を咲かせる桜は今が見頃となっており、街行く人々も例年に比べれば随分と薄着だ。
そんな陽気の、大学も春休みの夕方、図書館の入り口で俺は二ヵ月ぶりに彼女を見た。
「三春(みはる)君?」
「葉山(はやま)……さん」
真っ白な無地のワンピースの彼女は明るい栗色の髪をかき上げ、いつもと変わらない微笑みを浮かべていた。
「久しぶりだね、もう帰り?」
「もうって……六時過ぎてますけど」
沈んだ太陽を見て、彼女――葉山麻美は笑った。
何がおかしいのだろう。俺が首を傾げる傍らで、葉山はからからと笑う。
いつも、こうだ。
些細なことで笑い、屈託のない笑顔をさらけ出す。決して嫌味ではない心地の良い彼女の笑み――俺には到底、真似できない。
「もっと早く来るつもりだったんだけどなぁ。図書館、何時までだっけ?」
「……今日は七時まで」
俺がそう言うと、葉山は慌てたように左腕の時計を見やる。
俺も自分の時計に目をやると、閉館まであと三十分を切っていた。
「ありがとう、わたし行かなきゃ!」
そう言って軽く右手を上げ、慌てて図書館に駆け込んでいく。
「あッ……」
俺は彼女の後姿を見やりながら、小さく声を上げる。
――また、駄目だった。
今度一緒にお茶でもしよう、なんて大層なことを言わなくてもいい。ほんの一言、また明日だとか学校で、なんて別れ際に声をかけられたら。
(でも、駄目だ……)
俺はもうこちらを振り向かない葉山に向かい、さよならのつもりで右手を上げ、走るその背中を見送った。
俺にとって、彼女は研究室の中で異質な存在だった。
異質、というのはおかしな言葉かもしれない。ただ、俺にとって彼女は他の学生とは違って見えた。
「最近の若者」という言葉がぴったりな、ブランドバッグを引っ提げた女達や、ジャケット姿の軟派な男達。
美人で聡明で気立ての良い彼女の周りには、常にそんな奴等がいた。
講義中、授業中にもかかわらず騒ぐ奴等の真ん中で、いつも笑みを絶やさない葉山。自ら進んで喋りはしないが、話題を振られたなら快活に話す。
そんな彼女は、俺のような男にも分け隔てなく接してくれた。
俺といえば、空いた時間には研究室で本を読むか寝ているかのどちらかだった。ゼミでの発言率は、"普段は"お喋りな女達と最下位を争うくらいだ。
根暗、といってしまえば早いだろうか。そんな俺に声をかけてくる女は珍しかった。
俺も最初葉山に話しかけられた時には驚いたものだ。
『その本、わたしも読んだよ』
昼休みの研究室で本を読んでいた俺に、葉山はそう言ってあの微笑みを見せた。
それから俺の読んでいた文庫本を覗き込み、くすくすと笑う。
『意外だね、三春君。そういう本読むんだ』
何が意外なのだろうか。
俺は別に恋愛小説ばかりを読んでいるわけではないし、むしろ今日は珍しくこういった本を読んでいただけ――
そう俺が言うと、また葉山は笑う。
何がそんなに楽しいんだ。
少しむっとして俺は言おうとするがしかし、葉山の屈託のない笑いに、気はそがれてしまった。
それが、俺が彼女と交わした最初の会話。
そしてその時に、俺は彼女に惚れてしまったのだった。
高根の花だということは分かっている。
無愛想で華がなくて口下手な俺が、葉山に釣り合う筈もない。こんな俺に話しかけてくれる――それだって、夢みたいなことだ。俺が多くを望んではいけない。そんな気がした。
だからこそ、何も言えない。言うことができない。
お茶でもしようの一言も、また明日の一言さえも。