きみきみ さくらに ねがいごと-8
――ふわりと、何かが俺の目の前を舞った。
桜の花びらだ。春風が辺りの桜の花を散らせていた。突風に一瞬視界が奪われ、俺は思わず目をつむる。
しかし、次にその目を開いた瞬間、俺はその姿に圧倒された。
――ひとつ、またひとつ。
蕾がゆっくりと開いていく。たちまち大きな桜の木の枝に、淡い紅色の花が咲き乱れた。
その様子は、まるで夢か幻を見ているようだった。
辺りがざわめく。
そして一瞬だけ訪れる静寂。皆が皆息をのむ。
そこには見事な桜の大樹が、艶やかに花を咲かせていた。
一瞬の静寂の後、一気に歓声が上がった。
風に吹かれ、はらはらと舞い落ちる桜の花びらが俺の頬を優しく撫でて落ちていく。
桜の木は美しく、それでいて力強かった。
「あの、学生さんですか!?」
「一体、どうやってこんな奇跡を起こしたんです!?」
「マジックではないですよね!?」
興奮したように記者達が一斉に俺の方にマイクを向ける。
「あの……いえ、その……」
俺は急に恥ずかしくなって、カメラから顔を背けて人込みの中を隠れるようにして逃げて行った。身を屈め、商店街に逃げ込み、ようやっとカメラと記者達をまいて息をつく。
そして、この位置からでも十分に見えるあの桜を眺めて呟いた。
「……ごめん。ありがとう、桜」
「ありがとうは、こちらの台詞です」
言葉と共に、ぐいと肩を掴まれた。
どきりとして振り向くと、そこにはあの薄紅の着流し姿の桜がいた。
「桜……」
あんなことを言ってしまった手前、桜を目の前にして何と言ったらいいのか分からない。
俺が口ごもっていると、桜の方から口を開いた。
「まだ……願いを聞いていませんでしたね」
桜は優しげに笑みを浮かべていた。
「お別れは、竜三殿の願いごとを叶えてからにします」
「………」
(お別れ……)
俺は俯いた。
暫し沈黙が続いた後、俺は面を上げて言う。
「願いごとは……」
俺はそれを言うのが何となく気恥ずかしくなって、桜からは視線をそらして言葉を続けた。
「俺の願いごとは……その、今までみたいにずっと仏頂面しているんじゃなくて……いつでも笑顔でいたいんだ」
俺の言葉に桜は苦笑交じりで言う。
「それは、願いごとじゃあありません。竜三殿が頑張ることですよ」
それともずっと顔の筋肉を上げているようにしろとでもいうんですか、と桜は神妙な面持ちで俺に迫る。
俺は慌てて首を横に振った。
「分ってる。だから……」
その後の言葉は、ちゃんと桜の顔を見ながら言うことができた。
「友達に、なってくれ」
俺の言葉に驚いたような表情を浮かべる桜。
そんな桜に俺は続けた。
「いつでも笑ってる奴が側にいれば、つられてこっちも笑えるかもしれないだろ?」
「それで……いいんですか?」
首を縦に振る俺に、桜は相好を崩す。
俺はおずおずと右手を桜の前に差し出した。桜はそっとその手を握り返し、白い歯を零して目を細める。
その手は不思議と温かく、優しかった。
――さて後日、例の桜を咲かせた事件で俺の周りは大騒ぎだった。
『桜の心を動かした若者』というコピーと共に雑誌や地方紙に顔と名前が載ったせいで、一躍有名人となってしまった俺は、大学でも商店街でもよく握手を求められるようになった。
そのせいか、人と対すること、話すことには大分慣れたような気がする。
「あ、三春君!」
葉山が校門の向こう側で手を振っているのが見えた。その傍らには彼氏らしき男の姿。俺は彼女に向って手を振り返す。彼女ももう一度俺に手を振ってから去って行った。
「あれが、以前竜三殿が思いを寄せていた女性ですか?」
「ん……まあ、そうかな」
傍らを歩いていた桜の問いかけに曖昧に返事して、俺は笑った。
「今はいい友達だよ。それより、早く学食に行こう。食券が売り切れる」
「それは大変、また豚汁を食べ損ねてしまいます!」
その言葉に俺は思わず吹き出し、桜と顔を見合わせると、揃って食堂へと急いだ。
食堂前の桜の花がちらりと舞う。
もう、新緑の季節も近い。