伊藤美弥の悩み 〜初恋〜-4
「今だってほら、事情を聞きたくてそこでうずうずしてる」
美弥が視線を上げると、リビングの外で龍之介がそわそわしていた。
リビングに入りかけると竜彦からヤクザもびっくりの睨みをきかされ、入るに入れないでいたのである。
「どんな事でも、取り留めがなくてもいい。龍之介に全部、ぶちまけてごらん?弟ならきっと、言った事を全部受け止めてくれると思うよ?」
そう言って竜彦は龍之介を、リビングへ入るよう目線で促した。
龍之介は、おずおずと足を踏み入れる。
「美弥……」
美弥はじっと、龍之介を見つめた。
瞳の中で色々な感情が渦を巻いているのが、竜彦にも分かる。
だがそれを聞き出すのは龍之介の役目であり、自分ではない。
竜彦は弟に目配せをし、自分はよいしょと立ち上がった。
「んじゃ、俺はちっとそこまで煙草買いに行ってくるわ」
飲食業の仕事に就いている以上、舌が荒れないようにと酒はたしなんでも煙草は吸わない竜彦の台詞に、龍之介は感謝の眼差しを送る。
「あ……っと、美弥ちゃん。家には、どこにいるのか連絡入れ……てないか」
あんな状態で家に連絡を入れられる程、冷静な訳がない。
「OK、俺が入れる。美弥ちゃん、どうして欲しい?」
まだ龍之介を見つめていた美弥は、竜彦を見て瞳に困惑の色を浮かべた。
「どう……って……」
竜彦は、肩をすくめる。
「泊まった方がいいみたいだな。時間はたっぷりあるから、全部龍之介にぶちまけてやればいい」
電話をかけた竜彦が家の外に出ていくと、二人の間には微妙な沈黙が落ちた。
いや、沈黙が落ちるのは取り立てて騒ぐ程の事ではない。
今までだって会話が途切れ、互いの間に沈黙が落ちた事がある。
だがそれは会話が必要なくなったから途切れたのであって、今落ちている沈黙とは質が違うのだ。
どうしようもないまま、二人の視線は絡み合う。
『……』
ついと視線を逸らした美弥はしばらくそれをさまよわせ……やがて意を決し、龍之介に向かって腕を開いた。
「抱いて……」
次の瞬間、龍之介は美弥を抱き締める。
「……何があった?」
苦しげな息の下で、龍之介は呟いた。
いったい何があって、こんなぼろぼろの状態になってしまったのだろう。
それに関して、聞きたい事は山程あった。
だが今は問いただすよりも美弥の安寧を優先させねばならないと、龍之介は思い直す。
しかし……問いにならないその問いに、美弥は答えた。
「こ……高遠君に……」
美弥が幼馴染みを『紘ちゃん』ではなく『高遠君』と呼んだ違和感に、龍之介は眉を寄せる。
嫉妬で胸がちくちくするのでできる事ならやめて欲しい呼び方ではあったが、まさかこんな所でそれが実現するとは。
美弥の状態が状態なだけに、全く嬉しくない。
「龍之介の気持ち……ようやく、分かった……」
ぎくりと、龍之介は身を震わせる。
「み、美弥。ま、まさか……?」
恐ろしい問いを、龍之介は口にしようとした。
過去に自身が経験し、今も心に深い傷痕を残すあれと同じ事を、美弥までもが経験したのかと。
とすると、そんな真似をしでかすのは紘平しかありえない。
「美弥……」
龍之介の乾いた声に、美弥はぷるぷると首を振る。
「……よ」
そして、聞き取れない程に小さな声で呟いた。
「最後までは……してない……許してないよ」
聞こえないとでも思ったのか、美弥は少し声を大きくする。
「で、でも……」
「でも?」
震える声で、美弥は告げた。
「……これ……」
美弥がもぞもぞしたので、龍之介はきつい抱擁を緩める。
多少の自由を確保した美弥は、胸元を開けた。
――デコルテに、紅い花が咲いている。
それも、複数。
「どうやって逃げ出したのか、覚えてない……」
呟く美弥を、龍之介は再び抱き締めた。
「もういい……」
無理につらい記憶を掘り起こす必要は、どこにもない。
「僕が……一緒に行けば、よかったんだ……」
紘平に言いくるめられ、美弥と離れてしまった事を龍之介は後悔する。
できる事ならバイト終了後まで時間を巻き戻し、二人についていって美弥の身に起こった事を取り消してしまいたい。
「ごめん。ごめん……」
「謝らないで……」
経験があるから気持ちが分かり、自分よりもつらそうな声を出す龍之介を、美弥は抱き締めた。
「私は大丈夫。ね?」
そして、気丈に微笑んでみせる。
「未遂だもの。大丈夫よ」
そう言われても龍之介は、さらにつらそうな顔をする。
「大丈夫」
再度言われると、ようやく表情を緩めた。
「あ……」
表情を緩めた龍之介だったが、今度はあたふたさせ始める。
「風呂、沸いてるんだ。今更な気もするけど、入って体温めた方が……」
言われた美弥は、首をかしげた。
「……お風呂、済ませてる?」
龍之介を見て、美弥はそう呟く。
「今、離れたくない……」
言われた龍之介は、美弥を抱き締めた。
「いいよ。入ろう?」