蛍-2
夕日で、空がかすかに朱に染まっていた。
昼間の暑さが残した熱が、アスファルトの地面から湧き上がってくるのを感じた。ひと気のない小道を、自分のつま先を眺めながら、とぼとぼ歩いた。
こんなはずじゃなかったのに。彼には悪いことをしてしまった。いったん泣き出してしまうと思うように泣き止むことが出来なくて、結局、最後までそれが尾を引いた形になったまま私たちは別れた。
別れ間際、心配そうに私の名前を呼ぶ彼の顔が頭に浮かんだ。久しぶりに会いたいと言い出したのは私なのに、せっかくの再会が台無しだ。それもこれも全部、私のせいだ。下唇をぎゅっとかみ締めながら、再び溢れ出そうになる涙をこらえた。
なんでなんだろう。私は考えた。
人生のパートナーがいて、子供がいて、生きることにたいして苦労もしていないはずなのに、なんでこんな気持ちになるんだろう。どうして、同じように家族のある彼が笑っていて、私は今、こうしてうつむいているんだろう。
ひたひたと満ちていく真っ黒い負の感情は、今にも心のふちからあふれ出しそうだった。どうしようもなく嫌な気分だった。だけど、その気持ちをなんと呼べばいいのか、私自身、良く分かっていなかった。背後からいきなり名前を呼ばれ、私は足を止めた。振り返る前から、それが誰であるかは聞きなれた声で知っていた。
「よかった。追いついた。携帯、鳴らしたんだぜ」
走ってきたのだろう。肩で息をしながら、彼が言った。
「ごめん。マナーモードにしてたから」
「渡すもの、あってさ」
「渡すもの?私に?」
「これ」
そう言って唐突に私の手をとった彼は、何かをぐいぐいと握らせ、放るように私の手を離した。
指を開くと、小指の先ほどしかない小さなライトが乗っていた。新しくはない。どちらかといえば使い古された感じだった。
「それ、俺のストラップなんだ」
「……くれるの?」
「そのライトの後ろ、押してみろよ。光るだろ?ここじゃ、なかなか子供たちにも蛍とか見せてやれなくてさ。だから時々、それを光らせてやるんだ」
私は少し笑った。
「子供たちにばれない?」
「いや。ばれてるよ。まあ、蛍っていうのはこんな感じで光るんだって教えてるだけさ」
「そっか」
カチカチ、と蛍を光らせてみる。火が灯るように、ライトの先がゆっくりと点灯し同じはやさで消える。なるほど。暗闇でこれをやられたら、本物を知っている私でさえだまされるかもしれない。
カチカチ。
カチカチ。
何度もそうやっていると、急に頭の上が重たくなった。それが彼の手のひらだと気がつき、私は動きを止めた。
「誰でも、大変なこと、あるからな」
「……うん」
「つらいのはお前だけじゃない」
「……うん」
わかってる。そんなこと、よくわかっている。こんな風に気持ちが落ち込むことなんて誰にでもあることで、むしろたいていの人はぶつかる壁なのだということも。だけど、だからって我慢は出来ない。私が聞きたいのは、そんな正論などではないのだ。みんな苦しいのだから、もう泣くな、なんて言われたくない。私は、彼の言葉を身構えるように待った。
「だから」
「……うん」
「泣きたきゃ泣けばいい」
「……」
「いくらでも付き合ってやるから。我慢するな」
「……」
予想に反した言葉が、胸の中で膨れ上がった感情にそっと刺さった。水風船が破裂するように、中のものが飛散するのを感じた。そうなると、もう駄目だった。とたんに、自分の口元がおかしな形に歪んだ。目じりが下がり、顔中が引きつった。少し前と同じように、視界が物凄いはやさでぼやけていった。耐えることもなく、声を出さずに、ついに私は泣き出した。
「なんで……」
「ん?」
「なんで……そんなこと、言うかな」
小声で言いながら、私は手の甲で涙を拭う。