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【純愛 恋愛小説】

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-1

不意に名前を呼ばれ、我に返った。
グラスにかたどられた琥珀色の液体から視線をあげ、正面に座る彼にむけて慌てて笑顔を作る。それを見た彼は、形のいい眉をハの字にしながら仕方なさそうに笑った。
「なんだ、疲れたのか?」
 そんなことないよ、と首を横に振りながら、私は再び視線を手元に落とした。毎日たいしたことなどしていないのだから、疲れているはずなどなかった。疲れてなどいない。いるわけがない。
 ストローでグラスの中を、ゆっくりとかき混ぜると、水面に浮いてくる泡の音が、私たちの間にある沈黙を埋めた。再び名前を呼ばれたけれど、今度は顔をあげなかった。今の自分が、どんな顔をしているかなんて分からない。だけど、想像はできる。
 そして、彼とあと一秒でも長く目が合えば、それがきっと泣き顔に変わるだろう事も知っていた。頭の上で、短いため息が聞こえ、私の肩がびくっとなった。
「大丈夫か?」
「うん。ごめんね、大丈夫」
 今日の約束を決めたのは、私の方だ。彼とは大学の同期で、プライベートでも特別に仲が良かった。それこそ、男と女の関係にならなかったのが不思議なくらいだ。正直、そのことに不満を持っていた時期も少なからずあった。けれど今になって思えば、つかず離れずの距離を、絶妙なバランスで保ち続けていたからこそ、気兼ねなく会える間柄になれたのだ。そう。今回のように。それを思うと過去の自分を褒めたくなる一方で、どういうわけかちょっと憎らしいような、なんだか複雑な気分にさせられる。
 卒業した後は、さすがに顔を合わせる回数は皆無に等しかったものの、それでもメールのやりとりは頻繁にしていた。たあいのない内容の私のメールから、その裏にある真意を汲んでくれているとは思えない。でも、必ず返信をくれるのは彼だけだった。
「いくつだっけ?」
 唐突に彼に言われて、
「え?」
と気の抜けたような声で聞き返す。
 思わず顔をあげると、日に焼けた彼の優しい顔が視界に飛び込んできて、胸の奥がシクリと痛んだ。
「子供。男の子だったよな」
「あ…うん」
 四歳、と付け加える。
「へえ。やんちゃな盛りだな」
 目を細めた彼は、私を通してまるで息子が見えているかのように、そっと微笑んだ。
「そっちは?二人いたよね」
「ああ。上が五つで、下が一つ。この間さ、上の息子と海に行ったら、見ろよ、この焼け具合」
 半そでから伸びた丸太みたいな太い腕が、丸いテーブルのうえにどんとのせられた。そんなはずないのに、何故か海の香りが鼻先をかすめた気がした。熊に服を着せたような、こんがり焼けた彼が、白を基調としたいまどきのカフェにいるのが、なんだかとても不自然で、おかしかった。
「お。笑った」
「え?」
「いや、さっきからずっと落ち込んでる感じだったからさ。うん。やっぱ、お前は笑った方がいいよ」
「……ばか」
 私はもう一度笑おうとした。
けれど、こぼれたのは笑い声なんかじゃなかった。次の瞬間、私の頬が伝い落ちていく涙のくすぐったさを感じた。みるみるうちに目の前が水の皮膜で覆われ、驚いた彼が椅子から腰を浮かすのが、ぼんやりとだけど見えた。どうにか制御しようと頑張ったのに、やっぱり駄目だった。引きつった泣き顔を見られたくなくて、私は両手で顔をおおった。
闇に遮られた世界で、自分のか細い泣き声だけが、まるで他人のもののように聞こえてきた。


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