人間ダーツ-1
一
『今日も残業なの?』
心配そうに問うそのか細い声は、泣きそうな声をしていた。
『ゴメン、明日はちゃんと早く帰るから。』
『うん。』
必死に説得するその声は、結婚したばかりの新妻には疑えて仕方なかった。
『じゃあ。』
『あ……ちょ、』
“プツン”と音がして、電話は途絶えた。
結婚してまだ一ヶ月。夫は、発展途上国日本の最前線を行くIT企業に就いていた。このことが大変嬉しかった妻、上沼愛美は、毎日が天国にでもいる気分だった。しかし、一ヶ月が過ぎたある日のこと、急に連続で残業が重なり始めた。もちろん愛美も、最初は何てことはなかった。国を引っ張る役目を背負った企業、だからこそ残業は付き物だ。愛美は自分にそう言い聞かせてきた。しかし、こうまでも残業が重なりだし、しかも急にともなれば疑わざるを得ない。そのため、心配な愛美は毎晩電話をかけ、残業でないことを毎日祈るのだった。
『またか……。』
一人でぼやきながら、愛美はその場にしゃがみ込んだ。
彼女らには子供がいなかった。それは、夫、上沼貴之がつくらないと言い切ったことからだった。それでも、愛美は子供が作りたかった。子供の頃からの夢だった事もあり、いつまでも諦めることはできなかった。必死に説得するも、聞く耳を持たない貴之には言っても無駄だった。
貴之が帰ってこない事でストレスが段々とたまり始めていた。しかし、趣味など何もなかった愛美はストレスを発散する場もなく、一人むしゃくしゃしながら毎日を送っていたのだった。
愛美は電話を切った後に、リビングへ向かった。リビングには、旦那と食べるはずだったトンカツが並べられている。こんなはずではなかったのに。誰にもぶつけることのできないこの思いを、一人噛みしめていたそのとき、携帯の着信音が鳴る。一瞬貴之かと思い動悸が高鳴るのが自分でも分かった。しかし、見事にその相手は貴之ではなかった。
非通知、と点滅したその携帯にイライラを募らせながらも、この際だからどうせなら出てやる、との思いで出た。すると、相手はやたらと声の高い男の声だった。
『もしもし!上沼さんですよね?あの、私櫻井と申します。ちょうど貴方の家の前にいるんですけど、ちょっとお宅に入れてもらえないですかね?』
『はい!?』
あまりの言葉に、思わず取り乱してしまった。
『すいません、そりゃそうですよね。申し遅れました、私貴之の同僚の者です。貴之から連絡を預かって貴方の身辺保護を頼まれまして、やって参りました。』
『身辺保護?あの人がですか?』
『あ、はい。なんでも、いつも残業で悪いから、今日はオマエが行って一緒にご飯食べてやってくれ、とかなんとか言ってましたね。』
思い悩んだ挙げ句、一人でいるのも何となく心ぼそかった愛美は、その扉を開けてしまった。すると、そこに立っていたのは真っ黒のコートに身を包んだ白のピエロのような仮面を身につけた何とも不気味な男だった。いや、正確には男かどうかは分からない。しかし、先ほどの声の主からして男だろう、と察しがついた。
携帯を手にしていたその男は、ゆっくりと耳元に持っていき、口にした。
『簡単に開けちゃダメでしょ、奥さん。』
その声は、先ほどの声に何か別の声を混ぜたような気味の悪い声で、それを聞いた瞬間に全身が凍り付いた。そして、その男の後ろからは何人もの同じ格好の人物が現れ、愛美を取り囲んだ。
『行け。』
の合図と共に、一斉に愛美に襲いかかる。口元に布を押し当てられ、段々と意識が遠のいてゆくのが分かった。ゆっくりと目を閉じた愛美は、やがてぐったりとしてその場に倒れた。