恋愛小説-6
「あたしとあんたは目線が違うよ。でも、手だってこうやってつなげるじゃん」
「そういう問題じゃ…」
「そういう問題だよ」
ぴしゃりと言い切られる。
「じゃあ訊くけど、ソープ嬢のあたしがあんたと酒飲んでるのは迷惑?一緒にいてつまらない?」
弱々しい、けれどはっきりと聞こえるその言葉が胸を締め付ける。
「ソープ嬢と大学生である前に、あたしと圭介だろ?」
それは小石を川に投げて起きた、小さな波紋のようだった。本当に、本当に小さな震え。三年間一緒にいた僕だからわかる、心の機微。
握られていた手が離れる。温もりは、さっと消えた。
僕は、何も言えなかった。
一組のカップルがテーブルを立ち、店を出る。闇から生まれるように現れたウェイターが、キャンドルの炎を静かに消した。何もかも、時間すら死んでしまったように真っ暗になった。
それとも、元からそこに灯りなんてなかったのかもしれない。
◇
僕らが店を出たのは十一時を過ぎた頃だった。星は出ていなかった。寒空のなかをしばらく歩き、適当な会話を交わす。
「ひとつ、忠告しておく」
左右の別れ道になったところで、あかりは立ち止まっった。
「圭介が勝手に距離感を感じるのは自由だよ。だけど、それを理由に周りの人と壁を作るのはやめたほうがいい。誰も得しない」
金木犀の香りを孕んだ風が、ふわふわな髪をなびかせる。
「それと」
僕の返答を待たず、続けた。
「どうしてビールが黒くなるか知ってるか?」
「え?」
訊ねられたが、質問の意図がわからなかった。あかりは続ける。
「麦芽の色だ。高い温度で乾燥するほど色は濃くなる。つまり、きらきらしなくなるんだ」
星は遠くから見れば綺麗に光る。けれど、近づけばただのでかい石ころでしかない。そういった例え話の類だろうか?
人間関係でいうと、距離が近づくほど、仲が深まるほど、輝きはなくなる。そういうことだとしたら、僕らは、もう―――。
「タイミングは逃すなよ。いくらうまくいっても、言えなくなっちゃったらそれでおしまいだ。あたしみたいにな」
言って、けらけらと笑った。
「…あかり、あのさ」
「なんだよ?」
なぜだろう?
こんなあかりの顔は初めて見た。泣きながら、笑っていた。もちろん涙なんて流していない。けれど泣いていたのだ。それは、哀しくなるくらいに綺麗な顔だった。
直視できず、目をそらしてしまう。その深く澄んだ瞳に正面から向かい合う自信がなかった。
「あくまでも仮定の話だよ?」
強く風が吹き、地面に落ちた葉が舞う。
「もしあたしがあんたのこと好きで、それで、あんたが好きな子になれたらさ」
―――シアワセ、なんだろうな。
ざぁぁぁぁ、と木々が鳴った。幹は踊り葉は擦れ、森は唸るように鳴いていた。いや、泣いていたのかもしれない。
秋の風はからからと冷たい。ひんやりとした冬の風とは異なり、それはどこか寂しげで孤独な風だ。
壊れた電灯がちかちかと点滅する。細やかな埃のように降る光はスポットライトとなり、僕らのステージをまばらに照らしていた。
「あかり…」
触れようと伸ばした手が、空を切る。
「舞台には、お姫様は一人で十分だろ」
機械のように淡白な声は一切を遮断した。
風で乱れた髪を整える、傷跡を舐める仔猫のようなその仕草が、僕の心を締めつけた。
「ごめん」
呟きはすぐに霧散したけれど、それはしっかりと届いていた。あかりの顔を見て、わかった。
この時、僕は生まれて初めてちゃんと謝ることができた。そして同時に、謝ることによって人を傷つけてしまうことを知った。
「ほんと、からっぽ過ぎて苦しくなるよ」
空には電線と重なった丸い月が見えた。まるで切り込みを入れたように真っ二つに分かれていた。
「ばいばい」
手をひらひらと振ってあかりは去って行く。
僕は何も言えず、棒立ちになってそれを見送った。
小さな背中は黒ビールのように真っ黒な宵に呑み込まれ、ぱっと消えた。