飃の啼く…最終章(後編)-36
「お前が怒りに任せて奴を殺せば、あいつの取り込んだ人間の魂ごと壊れてしまう…いいからお前は死ぬつもりであいつの動きを食い止めろ!!」
そして、あなじの目の中に幽かな理性が戻ってきたことを確認すると、彼の髪の毛を放した。
「ほう?死に掛けの女を使って この期に及んで まだ策を弄するか?面白い やって見せよ!!」
あなじはうなり声を上げて黷に飛び掛った。恐ろしい咆哮と、怒号と、時折起こるけたたましい笑い声。それが、もはやどちらのものかも分からぬほどに、小さなあなじと巨大な黷は、混乱の中に戦った。
「さくら…私がわかるか?」
覚義は、すぐ後ろで始まった戦闘に臆する風もなく、さくらの手を握り心に直接語りかけた。
驚くべきことに、息を引き取ろうという今になっても、彼女の心は温かな愛情で満ちていた。
「お前の心を、借りるぞ…」
そして、自分の体に、彼女の心の中の全てを映した。
覚義は、自分が人の心を読むことが出来る、覚であることが嫌で仕方が無かった。人間も、妖怪も、神族も、同じように上辺を飾って、同じように心の奥に薄汚いものを持っている。浮世での生活に倦んだ彼が考えるのは、この世は何と醜いのかということばかりだった。
滅びかけた神の成れの果てが、いまさら世界を救おうなんて馬鹿らしい…
彼はそう思った。こんな世界なら、一度壊してしまったほうが清々するのだ、と。
しかし、彼女は言ったのだ。
―弱いところがあるから、醜いところがあるから、人は何かを愛するんだ…
おそらく、彼女の言うことは甘い。世の中には、そんな事を考えもしない者が沢山居るのだろう。そしておそらく、この戦いが終った後も、世界は醜い部分を持ち続けるのだろう。
それでも、彼女は戦ったのだ。
この世界を、愛しているから。
黷は、覚義の試みに遅まきながら気付いた。
「何…何をしている!?貴様はなんだ!」
彼は、自分にしがみ付くあなじを振りほどこうと、力の限りに暴れた。
「放せ! 放せぇえ!!」
あなじは黷の喉元に喰らい付き、渾身の力をこめて腕をその体に食い込ませた。触手が何度も、彼の体を貫き、打ち、引き剥がそうともがく。しかし、彼は一瞬たりともその力を弱めようとしなかった。そして、幾つもの触手が覚義を狙って伸びた。しかし何本の触手に貫かれても、彼はさくらの心を手放さなかった。
飃の心の中に響き渡る声は、世界の全てを呪い、罵り、憎んでいる。