飃の啼く…最終章(後編)-15
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さくらは走った。自分の周りで上がる怒号と、飛び散る血しぶきを、体中に浴びる。立ち止まり、襲い掛かる澱みを倒し、また走り、そして立ち止まった。
自分が混乱の中にあることを、彼女は怖れなかった。ただ、途方も無い悲しみが彼女を襲いそうになる度に、自分で言い聞かせなくてはならなかった。
―立ち止まるな。
再会と、離別を繰り返しながら、長い橋をゆく。そして、今は護るべきものがあった。
―手を、離すな。
鎹(かすがい)で繋がれたように、さくらは害の手を離さなかった。
数にきりの無い澱みが押し寄せる中を突き進むのは、濁流を遡るのに似ていた。進んでいるのか、それとも押し戻されているのか…振りかえって自分の位置を確認する余裕はなかった。
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しかし、ビルの屋上から見下ろす黷には、彼らが着実に近づいているのが分かった。もう少し…もう少し近づけば。
群がる蟲を炎で焼き殺すような圧倒的な威力と快感を、黷は味わうつもりでいた。人間を模したその身体に、あまりに多くの魂が捕らえられている。彼はその途方も無い力を半ばもてあましていたのだ。
―もっと近づけ。もっと。
彼は暗い微笑をその顔に称え、彼の敵の最後を、最後に際して奴らが抱くであろう絶望を思い浮かべた。
その時、空の雲が渦を巻いて、轟きが響き渡った。稲妻が雲を走り、その主の到来を皆に告げる。地上でもどよめきが起こった。すぐに戦いの喚声に飲み込まれてしまったが、それは追い風の様に戦士たちの心に希望をもたらした。そして、誰かが声をあげる。
「龍だ!龍が来てくれたんだ!」
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一方、その様子を窓から見ていた茜と真田、河野の三人は、胸騒ぎを覚えていた。屋上に居る黷の、余裕の笑みさえ見えるような気がしていた。そう。あいつはきっと笑っているに違いない。さっきまでここに居た黷は、橋の入り口付近であった爆発を見るや、どこかへと姿を消した。
しかし、沸き起こった狗族の、あの猛々しい喚声を前に身動き一つとらなかったのには、大きな爆発に飲まれた澱みたちを見て、表情一つ変えなかったのには、理由があるに違いないのだ。
黷には、何かある。その事を油良から別の狗族に伝える術があればよいのだが…。