飃の啼く…最終章(前編)-27
匂いで痕跡を残さないように、彼らは常に身体を清潔に保たなくてはならなかった。例え隠れたビルのフロアに温水設備がついていなくても、一日身体を洗わなければそれだけ体臭はきつくなる。体臭がきつくなれば、狗族にも澱みにも後を追われる心配が増す。とりあえずは、心苦しいながらも自分達が死んだことにしておくほか無い。
あの日青嵐から受けた密命を知るものは、本軍とは別行動を命じられた震軍の、更に一部の者達以外には知るものは無い。更に、震軍はそもそも固まって行動してはいない。皆が戦場の各地に散らばって、澱みの目にも他の狗族の目にもつかないところでの戦いをしているのだ。
「終ったか?」
「うん、ぴっかぴかに綺麗だけどガッチガチに寒い」
じゅうたんの敷かれた床に座ってオフィス机に寄りかかる飃は、その軽口に笑った。
「なら暖めてやろう」彼は言った。
「おいで」
少女は、彼の足の間に収まり、寒気を払うように二、三度軽く震えた。
「うー、あったかい」
明かりのない部屋の、大きな窓から見る夜の景色は不気味だった。ホラー映画ならば、何気ないこんな瞬間、得体の知れない化け物が何処からとも無く現れて、窓ガラスにべたっと張り付いたりするのだろう。しかも、そういうことが起っても全くおかしくないような状況なのが、さくらには奇妙に可笑しかった。
「みんな…」
無事かな。そう口にしたところで、何も変わらない。答えはどこかにはあるけれど、彼らの手には届かない。また、その答えに手を伸ばしてもいけないような気がした。今はまだ。
「己たちは無事だ」
飃が言った。
「今はそれだけで十分だ」
「そうだね」
囁き交わす会話は、あたりを満たす暗闇に吸い込まれて消えた。
目の前の窓からは、昼間見る海と同じものとは到底思えない真っ黒な海。そこに、ぼんやりと浮かび上がる白く長い橋が見えた。その橋は、敵の本陣へと真っ直ぐ伸びている。
八条さくらと飃は、進軍を開始した地点から、敵の本陣へ至る最短ルートを大きく迂回し、本陣の建つ埋め立て地のほぼ真後ろから伸びる一本の高架道路から本陣に乗り込む予定だった。しかしそれには、先ず敵の根城を覆うあの結界を破壊しなくてはならない。仲間が結界を攻撃する予定の時刻までは、まだかなりの時間がある。
機は熟していないのだ。
遠くから見ている限り、本陣の様子にも、その周りにも大きな戦いが起っている様子は無い。さくらはもどかしくて、心配で、いっそ自分が生きていることも皆に知らせて、一致団結して突入しちゃえばいい、なんて考えた。しかし、それはまた、全ての兵士に玉砕を強いることになる。最後の瞬間まで、なるべく多くの戦力を温存したい。そして、最優先されるのが飃とさくらの二人だった。それが青嵐の考えであり、命令なのだ。
でも、と、さくらは思う。
「キビシーよね…ただ待つ、ってのも」
「そうだな…」
飃はそう言って、さくらの頭に優しくキスを落とした。
―――あ。
ぴく、とさくらが動いた。飃も何かを察知する。