飃の啼く…最終章(前編)-26
「…何だよ、薄ら笑い浮かべやがって」
野分に小突かれて始めて気付いた。
「いや、この二人は、そうとう凄いやつらなんだろうなってさ」
二人は顔を見合わせて、秘密を共有しあった子供のように笑った。
「そうとうなんてもんじゃねえよ。な」
「うん」
罠ではないのだろう。真田は思った。もしこのメッセージが罠なのだとしたら、敵はものすごい希望をこちらに齎(もたら)した事になるのだから。
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「まだか?」
「ん、もう少し」
早くも季節は秋へ踏み出したかのように、寒い日が続く。雲が分厚く太陽を覆うせいで、八月もまだ十日以上残っていると言うのに、毎日が肌寒い。トイレの出口に寄りかかる男はいぶかしげに言った。彼の髪は腰に届こうかと言うほど長く、夜の小川の様に黒く、緩やかな巻き毛だった。
「気付くものが居るとは思えんが…」
人外の血を引く者の目にのみ映る狼の耳は鉄で、今は目の前の少女の笑い声を拾って微かに揺れた。
「気付く人もいるかも知れないでしょ?」
自分達の足跡代わりに、トイレの鏡に伝言を残していくという思いつきは、我ながら天才的だと少女は思った。澱みの吐く息には水蒸気が含まれて居ない―人間のように臓器が無いのだから当然だ―から、ばれない。多分。極秘の作戦下だとしても、これくらいの痕跡を残すことくらいは許されるだろう、と彼女は思った。
とは言え、一貫して男子便所にメッセージを残すことにしたのは後悔していた。
「それにしても嫌なにおいだ…何故人間は便所にまで香水をかけたがる?」
「私に聞かないでよ…言っとくけど、女子トイレはこんなに臭くないんだからね…っと!」
―8/20 AM1―まで書き終えて、少女は乗っていた洗面台から床に降りた。
「かーんぺき」
鏡の中から男を見る彼女の顔は煤と泥で黒ずんでいたが、きらきら輝く大きな目には曇りなど無かった。
「あとは、己たちの匂いを消すだけだな」
「うぇっ」
少女は身震いした。