飃の啼く…最終章(前編)-10
「あいつは大丈夫だよ。見かけによらずタフな女だ」
「そうだと、いいのですが…」
若狭はほとんど泣きそうだった。
「なんにせよ、お前が生きていてくれてよかったよ」
「ですが、青嵐軍はどうなるのです?貴方はここにいらっしゃる。真っ直ぐに敵の本陣を目指す青嵐軍の周囲を遠くから囲み、澱みがあなたたちを狙ってやってくるのに奇襲をかける…それが我々の使命だったというのに…合流地点にも届かぬ内に散り散りになってしまった…それに、飃殿とさくら殿も…」
「ああ…」
青嵐は、それ以上語らなかった。
「長居はしたくねえ、行くぞ。」
8月19日、午後2時。来たときと同じように速やかに、彼らは無人のビルを後にした。
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8月19日午後6時。青嵐が若狭を拾ったビルからは入り組んだ海と、正方形の埋立地、そこを通る高架鉄道の線路をはさんで東に50キロほど隔てた瓦礫の原で、御祭の巽軍もまた、苦戦を強いられていた。雑魚の澱みならば、何匹来たって負ける気などしない御祭だったが、目の前に居る澱みの冥(むつ)は彼の予想を超えて強かった。力の劣る兵を前に出すわけには行かない。いつもへらへらという笑顔が張り付いている御祭の顔は、強敵を前にしてこわばっていた。
「だめねぇ…ぜんっぜん歯ごたえがないんだからぁ」
間の抜けたオカマ声にイラつきながらも、手も足も出ない状況なのは変わらない。目の前に立つ澱みは、不自然に艶のある黒い長髪を乱すこともなく立っている。
「あたしね、狸って好きじゃないの…美しいイメージってもんがないじゃなあい?なんか間抜けで、土臭いイメージしかないのよねえ」
一方御祭は、片足の腱が切れ、あばらも何本か折れているか、ひびが入っていた。彼の妻は彼からは見えないところで他の澱みと戦っている。彼はそのことに感謝しそうになる自分を叱咤した。まだ早い―妻に自分の死ぬところを見られる心配をするのは。
「御祭様…!」
歳若い兵士が前に出ようとする。
「手を出すな!」
御祭はその兵士を一喝した。そして、血でぬめる剣をたすきで手にくくりつけると、言った。
「ワシが死んだら、お前達は仲間をつれて逃げろよ。お前達にはかなわねえんだから」
「あらぁ、潔いのね。好きになっちゃいそ」
両手を重ねて体をくねらせる。
「でも、逃げたって無駄よ。全員逃がさないんだから」
滑稽な動作の中にも狂気が垣間見える。ふらふら、くねくねと動きながらも、その目はじっと目の前の御祭を見ていた。まるで、獲物を前にした蛇のように。
「あたしね、狸の血の味って、まだ知らないのよ。貴方のはどんな味なのかしらぁ」
澱みは、抜き身のまま背負っていた、自分の身長ほどもある斬馬刀を片手でやすやすと振って見せた。あれに斬られたら、ひとたまりもないことは誰だってわかる。御祭は深く息を吸って、迎え撃つ構えを取った。