飃の啼く…第26章-10
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―そんなに欲しいなら、その薙刀も、盾も、全部あげるわよ!
もう、一年以上も前の話になるのか。飃は、熱い湯に浸かってふと、そんな事を思い出した。風呂に関しては、二人の間で明確なルールが設けられている、さくらの適温が38度(飃が、まるで水だといってはばからない温度)なのに対し、飃は45度位まで湯の温度を上げないと風呂に入った気がしないという。なので、先ずさくらが彼女の適温で湯に浸かってから、飃が好きなだけ追い炊きをする。というのが二人のルールだった。今も飃は、さくらが片足を突っ込んだだけでのぼせそうな風呂の中で、文字通り涼しい顔をして体を休めていた。
―もともとこんな戦いやりたくなかったんだもん。両親が勝手に私の中に武器の種をまいて、勝手に結婚相手まで決めて、勝手に私の人生を思い通りにしてるんだ!こんなの…
あの言葉を聞いたとき、一言ごとに殴られるような感覚を味わったものだ。幼い頃、村にやってきた人間の女…その幻を彼女の中に見ていたから、頼りなく、未熟な彼女を心のどこかで見下していたのかもしれない。そしておそらく否定していたのだろう。彼女が、小さな飃に
―さあ行きな!お父さんと、弟と、この村を守るんだよ!
そう言った。その言葉の内、最後の一つも守れたかどうか自信は無い。しかし、努力はしてきた。命を賭して。それだけに、きっと失望が大きかったのだろう。
―こんなの私の人生じゃない!
地下鉄の駅でその言葉を聞いたときに、飃はようやく、八条さくらと言う人間を見たのだ。ありのままの彼女の姿を。
弱くて、小さくて、まだまだ未熟だが、それでも必死に戦う彼女の姿だ。
―信じて…私が戦ってきたのは、本当に単純な、取るに足らないような理由からなの。
彼女はいつ、自分の戦いを受け入れたのだろうか。琉球で、シーサーたちの悲しみを目にした時?村を、澱みが襲った時?飃が獄に囚われた時、それとも蝦夷で、見捨てられた妖怪たちを目にした時か。
―涙を見たくない。それだけなの。飃…今の貴方なら…わかっているでしょう?
分かっているとも。痛いほどに。
だからこそ、この胸がこんなにも痛む。そんな理由で戦うものなど、人間にも狗族にも居やしないのだから。お前一人が、お前以外の皆の涙を止めようと戦うという…。いっそ自分も、過去を、憎しみを捨て去って、お前と同じ優しい気持ちで澱みに切っ先を向けられればいいのに。
飃は長いため息をついて、目を閉じた。無理だと分かっていることだ。
立ち上がって片足を床につけたとき、勢いよくドアが開いた。
「遅いっ!ご飯が…」
見るとさくらがふくれっつらで、風呂場に入ってきて仁王立ちした。水蒸気のせいでぼやけていた視界が徐々に晴れると、全裸の飃と対面して居る状況が明らかになった。
「あー…っとぉ…」
飃がまだ風呂に浸かっていると思っていたさくらの顔はたちまち、45度の湯に30分浸かった時のように赤くなった。
「今出るところだったんだが」
冷静な飃の言葉に、余計焦ったのか、
「さっ、ささ、然様で御座いましたかっ!失礼しましましたっ…!」
と普段なら間違っても使わないような言葉を残して出て行こうとした…のだが、ぬれた床に足を取られて危うく転びそうになる。