mare-8
「人間は一人残らず戦場になる区域からの退去を命じられ、退去に応じなかったものは澱みに食われてしまうでしょう」
「そんなこと…」
「ありえないって言えるか?現にお前らは、澱みを見て、話を聞いて、奴らに食われる人間を見ただろ?その、なんだ、動画とかなんとかいうやつで」
部屋が急に静まり返った。寺の鐘の音が、ずんと重く、空気に染み渡る。
「じゃあ、どうするんだよ…澱みは無限に増えるんだろ、戦うったって…人間にゃ無理だろ…ミサイルとかなら、何とかなるかも知れないけど…」
「みさいる?あの空を飛ぶ爆弾のことか?あんなもんじゃあいつらは殺せないよ。だから戦うのは人間以外のあたしらだ。人間は安全なところに逃げてりゃいい」
単純なことのように話すが、なぜかオレには、ことがそう簡単に運ぶとは思えなかった。なにしろ、狗族をはじめとする“人間以外”のものは滅びに瀕しているとさっき自分達で言っていたじゃないか?そんなやつらが、無敵に見える澱みってやつらと戦って勝てるのか?
言葉には出さなかったが、小夜は俺の心を読んだように言った。
「だから、勝つ見込みを増やすために、こうしてあなた達にお話してるんです」
「でも…おれ達に何が出来るんだよ…」
ものすごい波が押し寄せてくる恐怖を感じながら、俺は言った。
「その銀色の箱で、戦いの記録をとること」
「それと、私達の通信役になってくれること」
二人はその言葉を、今までここに来たオレたちみたいな奴らを相手に何度となく口にしたんだろう。諦めが半分、期待が半分。いや、もしかしたら諦めのほうが勝っていたかもしれない。そしてそのほうがありがたかった。
「俺たち…」
俺達は何も、戦場カメラマンをやりたいんじゃない。ちょっと面白そうなUMAを見つけたと思って、動画を辿って見つけたのが恐ろしい化け物だっただけだ。怖気づくのは当然だし、関わりたくなんかないと思う。他のやつらと同じように。そして、おれ達には他のやつ以上の度胸も、野心も無い。そう、心の中から言いたいことが湧き上がる。しかし、その一つとして口に出して言う勇気はなかった。
伏せた目をためらいがちに上げる。二人の表情は、既に諦めのそれになっていた。深い井戸のそこへ落ちてゆく硬貨を、もうこの手に戻ってこないのを知りながら見つめるものの眼が、そこにあった。
「帰るなら帰って良いぜ」
野分が無愛想に言った。小夜も今度はそれをたしなめることはしなかった。二人の女の肩は、疲労が押し寄せたかのように下がった。
俺は立ち上がり、ごめんな、と呟いた。畜生、相方はさっきから黙ってばかりで何の役にも立たない。俺はデジカメをとりあげ、相方の腕を引いて立たせた。
閉めた引き戸の向こう側から、野分が小夜を慰める声がした。
―そんな顔するなよ。人間なんか当てにできないって、あたしらには、ずっと昔に分かってたじゃないか―
玄関は開いていた。曇り空は依然曇ったままで、いつ雨が降り出してもおかしくない。あの二人と―正確には、あの二人が所属する青嵐会という組織と協力体制にあるらしい住職も、何度となくこれを繰り返したのだろう。出て行くのは自由だと、その気遣いがありがたいと同時に、心のどこかが自分を叱り、失望している。
―お前にはがっかりだよ。
おれ達はのろのろと靴をはき、玄関の向こう側から手招きしている夕暮れに出て行こうとした。