The kiss and the light-32
実際家の彼女は、あの部屋を見てどう思っただろう。恐怖を感じたに違いない。当たり前だ。自分を抱いた男の狂気を、実際に目にしたのだから。しかし、リビングの机に走り書きしてあったメモは、信頼のかけらがまだ残っている証だった。彼女はあの肖像を見て、何かを思い出したのだろう。そして彼女のことだ、一人で向ったに決まっている。なんにつけても、何かを見つけたら黙っていることが出来ない性格なのだ。俺が苦手な性格だ。まるで、東から昇る太陽のように、闇を暴かずにはおれない。
女の癖に、どいつもこいつも強かだ。
強かなくせに、どいつもこいつもあっさり死んじまう。
―嗚呼、死よ、死よ、
お前は解決にはならない!
蝙蝠は蝙蝠でなければならない。
生命だけが出口を持つ―
そう。生命だけが。
+++++++++++++
―あそこに、いる。
身体が動いた。考えも無く、頭に浮かぶ衝動こそが正しい考えで、自分はそれに従うべきなのだと一心に思った。追いかけてくるか細い声には耳を貸さずに、中谷はただその扉を開けるために走った。錆びた大きな取っ手に手をかける。
―こんなことをしてはいけない…飆が来るのを待たなくてはいけない―
その考えがひらめくたび、恐ろしい圧力が頭にかかって一瞬後には頭から消えていた。嫌な汗が背中を伝い、中谷は取っ手を持ったまま硬直した。
そして、中谷はぐっと踏みこみ、両の扉を同時に開けた。
高い天井から吊るされるランプ。足元には血の色のようなカーペットが敷かれている。部屋の壁は本棚で埋め尽くされていて、壁にも取り付けられたランプの琥珀色の光を受けた背表紙の金文字が揺れるように光った。ずっしりとした家具で統一されたこの豪勢な部屋を見た限り、この部屋を一歩出ると、外からはここが寂れた倉庫にしか見えないなどとは想像もつくまい。
人の気配は無かった。足音を立てないようにゆっくりと歩き回って検分する。
やはり誰もいない。
ペルシャ絨毯は、足元に広がる花畑さながらに、ふわふわとした踏み心地がした。
机の上にある、薔薇の蕾のような形をしたアルコールランプの炎が、外から入ってくる清浄な風に、危なっかしげに揺れた。倉庫の中の、鼻をさすようなにおいが、その風にさらわれて出て行くのを感じる。中谷に追いついためぐりが、不安げに足元について歩いた。
重厚な本棚にきれいに並んだ沢山の蔵書のタイトルを見たが、様々な言語で書かれた本が入り乱れていた。英語ならかろうじて意味が取れるが、医学用語のような長く専門的なまで単語は彼女の知識の及ぶところではない。その隣には、分厚いカーテンがかかった棚があった。端を持って慎重に持ち上げ、懐中電灯で照らすと中谷は声をかみ殺して短い悲鳴を上げた。 大小入り乱れた沢山の瓶が、びっしりと棚を埋め尽くしている。中に入っているのは、どれも臓器だった。気味悪くにごった保存液に、血の気を失わないままの臓器が浮かび、しかも脈打っている。こみ上げる吐き気を飲み下す術を知っていなかったら、情けなくその場で嘔吐していただろう。