The kiss and the light-29
「お守りが効かないわけよね…」
中谷は爪を噛んで一人ごちた。調書にあった男の住所にあったのは、大きな倉庫だった。中谷は、今その倉庫の向かいの通りに車を止め、間違いか、ウォーリーでも探そうとするみたいにじっと倉庫に視線を注いでいた。人通りはなく、ここに来る途中で通り過ぎたバス停の看板も錆びて文字が読めなくなってしまっていた。あたりには、夏の気配に活気付いた雑草が、黄金色の枯葉の茂みの間から、にわかに青い草を覗かせていた。道路の舗装はいい加減で歩道と車道、砂利道とアスファルトの境界線もあいまいだ。そんな中にぽつねんと立っている倉庫は、一見すれば何の変哲もない、ただのうち捨てられた倉庫。それなのに、伺いを持ってみれば限りなく怪しい要素をあげることが出来た。厳重に巻かれた鍵は、放置されてるとは思えないほど新しい。扉にかかれたスプレーアートは、飆の背中にあったタトゥーの模様に似ていた。もし仮に、魔術だか何だかに熱中している不良少年があれを書いたのだとしても、この付近には民家らしいものはおろか、まともな道路すらない。それに、扉にだけでかでかと描いてあるところも不自然だ。中谷は、限りなくリアリスティックな思考回路をフルに回転させて、しぶしぶ、あれは飆の捜索をかいくぐるための模様なのだと結論付けた。
それにしても、調書にアジトの住所を書くとは、中谷の気分は悪くなった。まるで、待たれていたみたいだ…今までずっと。
「まさか、入ったりしないでしょうね?」
止めるのも聞かずについてきためぐりが、おずおずと言った。
「もちろんこのまま突入したりしないわよ。飆が来るのを待つわ…もし来れば、だけど」
「メモを残してきたんでしょう?」
「一応ね…」
ここに来ることには確信があった。来た後のことはまったく予想がつかないけれど。その懸念が彼女の言葉を澱ませた。
1時間、2時間が経過したが、倉庫には中にも外にも人の気配はない。
めぐりは、助手席で猫らしくない几帳面な座り方のままかなり長い時間固まっていた。全身の毛が逆立って、巨大な黒い毛玉のように見える。怖いの?と中谷が聞こうとしたとき、黒猫は固まったまま言った。
「なら帰りましょう。後のことは旦那に任せて」
「え?」
小さな身体に手を触れると、彼は痛いほど震えていた。
「めぐり…」
「あたしは怖いんです」
一日ずつ長くなる昼が、今日は極端に短いような気がした。ふとのぞいたルームミラーは、すぐ後ろに迫る夜の空を映し出している。
「ご主人が亡くなったとき…今際の声が、ああ…今でもなぞるように思い出せるんですよ。あの声に、なんと多くの感情がこめられていたことか…その力が私に言葉を与え、いつもよりものを考える頭を与えた…でもね、中谷さん。でもねえ」
残酷だと、中谷は思った。ものを考える頭と言葉を与えたのに、流す涙を、彼に与えなかったのは。
「…あの人は良い…良い、人間でした…
なんたってあたしゃこんなになっちまったんでしょう…物を考えるには、あたしゃ余りにちっぽけな妖怪だ…あたしにゃ何にも出来ない…」
「それなら、どうしてついてきたの」
あまりに小さな身体なので、手を置くのも遠慮したくなる。結局、彼女は助手席の淵にそっと手を置いた。
彼は答えなかった。ただ、小刻みに震えながら、中谷には見えない何かをじっと見つめるようにそうしていた。