The kiss and the light-28
―この男―
「誰だ!!」
聞いたことのない、聞き覚えのある声が彼女に噛み付いた。驚いて声のしたほうを見ると、男の肖像が張り巡らされた壁に向き合うように置かれたソファに、飆が半ば起き上がり、横たわっていた。さっきとは別人のような彼の姿に、中谷は言葉を失った。彼の頬はやつれ、目の下にはどす黒いくまができていた。完全に起き上がることが出来ないところから見ても、そうとう衰弱しているのだろう。何より、彼の手の甲からおびただしい量の血が流れ出ていた。
「飆…ごめん、あたし…」
「出て行け」
言いよどむ彼女を、飆は容赦なく追い立てた。
「でも、その怪我―」
「出て行け!!」
迷い込んだ森で憎しみに瞳燃え立つ狼と出会った、まるで小さな少女のように、彼女は一目散に部屋を、そしてアパートを出て行った。
ドアの閉まる音が銃声のように、空虚な部屋にこだまする。
飆は、その音に腹を撃ち抜かれたように、力なく身体を横たえ、深いため息をついた。誰にも見せたことのなかった姿を、一番見せたくない人間に見せてしまったこと、そのことに取り乱し、我を忘れて声を荒げたことへの後悔が、血と一緒にゆっくりと溜まっていった。
「畜生…」
飆は、凝固しかけた血でふさがりつつある手の甲の傷を嘗めた。そして、今まで流していた血を受けていた香炉の皿を取り、火を消した。薬草の入った皿の中身は、数多くある鉢植えのひとつに空けた。その草が手を伸ばすのは、キーツから引用した詩の一部だった。
―否、否、忘却の河にゆくこと勿れ、また 固く根付きとりかぶとを絞りて 毒ある酒を求むる勿れ―
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まだ5月だと言うのに、厳しい陽射しが刺さるように降り注いでいた。
何ヵ月かぶりに回した車のエアコンからは微かにかび臭いにおいがして、4分前までは冷えていた炭酸は温い砂糖水になった。サングラス越しに見る世界は光と闇を明確に隔てた。色も、温度もそこにはない。
あの男は言った。
「私たちに必要なのは理由だ」と。警察の取調室で。
私は聞いた。「何に対する理由?」
男は答えた。
「命の理由さ」
そして、彼は一人、去っていった。
被害者の父親を名乗った男の戸籍には、娘はおろか結婚した痕跡すらなかった。しかし、DNAは彼が生物学的に菊池美桜の父親であることを示していた。