The kiss and the light-14
「寝たら?」
飆は何も言わずに中谷を見た。何を考えているのかわからない、と彼女は思った。でも、心の中では自分の精神状態を案じて、何があってもいいように今まで起きていてくれたんじゃないかと期待しそうになる。大人らしくないそんな期待が顔に出る前に、畳み掛ける。
「私はなんとも無いし、今夜は部屋の外に出たりしないから。昨日の夜も寝てないんだから…」
せめて何か言えばいいのに。せめて考えていることが表情に出ればいいのに。せめて真っ直ぐにこちらを見るのをやめてくれればいいのに。中谷は思った。
「あたし、相棒でしょ?少しは信頼しなさいよ」
じりじりとした沈黙の後、ようやく飆が言った。
「じゃあ…何かあったらすぐに起こしてくれ…」
そして、自分の部屋のドアと思しきものの向こうに消えた。
「3時間で起きる。何が聞こえても部屋に入ってくるなよ」
救急車を呼ぶな、部屋に入るな、家から出るな…そのうち、『関白宣言』でも歌いだすんじゃなかろうかと中谷は思った。お前をここにかくまう前に、言っておきたいことがある、とか。
「誰が入るもんですか」
飆の低い笑い声がして、部屋は再び静かになった。
車のヘッドライトが、一つ、また一つ灯る。立ち並ぶ街灯は、人の目に留まるのを避けるようにいつの間にか、すべて灯りがついていた。
空を覆っていた焔のような夕映えは鎮まり、ビルの輪郭も、遠くにいくほどぼやけている。家々の灯りも今では、青い紙に針で規則正しく開けた穴の整列に見えた。
穏やかな風は、羊のような雲の群れを月の上から優しく追い立てては、再び月に憩わせていた。
飆の収集した資料には想像以上の説得力がある。中には、中谷には理解できない、まるで焼肉屋のメニューのような単語やら専門用語があったりもしたが、概ねは飲み込める。
そして余りに、私怨の影を感じさせる「彼」の羅列。「犯人」でも「容疑者」でもない。被害者の喉を掻き捌いたのは何時でも「彼」だった。中谷はあの手紙を読むまで知らなかったが、飆とこの容疑者の間では、イギリスでの一軒から数えて十回以上もこの鬼ごっこが繰り返されていたのだ。
―狂ってる。
時間の歩みは緩慢だった。
少なくとも、今日はあまりにいろんなことが起こった一日だったのだ。
飆は書斎に篭って眠っている。夜空を遮るもののない夜景を見るのは心踊る体験ではあったが、同時に、自分が酷く無防備であるような気がした。灯りを落とした部屋の中で光っているものは、テーブルの上においてある小さなランプ一つ。
こうして夜を過ごすと、夜空も光を届けているのがわかる。青い光だ。普段、繊細な心持で夜空を見上げたことなどなかったから夜の空というのは黒で塗り固められたように見えるのだと思っていた。実際は、幾重にも重ねられた青のような色をしている。遠くに浮かぶ月はまだ肥えていて、満月か、すこし欠けているか見分けがつかなかった。
都会、というよりは住宅街に近いこのあたりは、夜景も大人しい。しかし、いくつかの明かりが、自分と同じように夜に取り残された人間が居ることを教えていた。