The kiss and the light-11
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「飆なの…!」
駆け寄ってしゃがむ彼女の手を感じる。おろおろと辺りを見回す中谷の姿をぼんやりとした視界の中で見ながら、彼女のこんな姿を見たのは俺だけだろうな、と思った。
「ちょっと、何か言ってよ!」
なぜか落とした声で俺に呼びかけた。
「救急車は、呼ぶなよ」
不機嫌そうに唸った俺の声は、まだ人間のそれに戻っては居なかった。
「あのねえ…!」
批難の声が途切れたのは、体中のタトゥーを見たせいだろう。特に背中には、万物の調和を表わす象徴と記号を配した六榜星が刻まれている。物質のもつ性質を身体に取り入れ、自らのエネルギーと知識、そして血を以って性質を組み替えたり、物質に宿るものの声を聞くのが俺の教わった“魔術”だ。物質に宿るものがすんなりと身体の中に入ってくるように、このタトゥーは彫られた。日本の銭湯には入ることは出来ないが、自分の身体を誇示する欲望が無い限りあんなところに行く必要があるものか。
肩で息をしながら、床に手をついて起き上がり、対照的にぺたりと床に座り込んだ彼女を見下ろした。
「人知を超えた…だろ?」
彼女は気を失った。
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―おかしな匂いがする。
中谷の嗅覚が脳に呼びかけ、眠っていた意識が目を覚ました。
「なんなの、このにおい…。」
寺の鐘に頭を突っ込んだまま、坊主が鐘を突いたら、こんな感覚になるんじゃないだろうか…中谷は危なっかしげに回転する世界を遮断するために目を閉じた。
「夢魔を避ける香だよ。」
「むま…?」
もごもごと口にした。身体を起こそうと手を突くと、ソファの上に運ばれたのだということがわかった。何だか知らないが、昨日見たものも夢だったのだろうと中谷は思った。
「なにが混ざってるの…換気扇をまわしたら苦情が来そうな匂いなんだけど。」
「胡椒、馬の鈴草の根、石竹、生姜、肉桂、肉豆蒄、蘇合香、安息香と…」
もういいというように、中谷は手を上げた。
「…伽羅樹だ。」
「いいよ、どうせそのうちの半分も知らないんだから…」
そして、よろよろと起き上がって席に着いた。飆はのんきに新聞を広げている。問題の香炉はテーブルの真ん中においてあった。
「夢魔は人の夢に侵入して精神を食い散らかす。生気を抜かれて廃人になるか、においに関しては口をつぐむかだな」
新聞をめくるたびに、ものすごい匂いが中谷のほうに来る。彼女は顔をしかめて、再びソファに戻った。体中に鉛を詰め込まれたみたいに重い。