和州記 -宵二揺ルル紫花--5
『嘘や』
自分の声が震えているのが分かった。
身体から汗がどっと流れているような気がした。
『蘇芳――!』
叫んでも、叫んでも、無駄なことだった。
床に落ちた酒瓶が中身をぶちまけ、一紺の足を濡らす。
濡れた着物が足に纏わりつく嫌な感触。
しかしそんなことなど気にしていられようか。
『…蘇芳――』
紅梅に肩を抱かれ、一紺は小さく呟くようにその名を呼んだ。
大切な人を亡くした今、ただ思うのは――。
「ッ!!」
――目が覚めた時、一紺の身体はびっしょりと汗で濡れていた。まるで行水でもしたかのようだ。
荒く息を吐いて、一紺は足元を見やる。座敷から持ち出した酒が零れ、一紺の足を濡らしていた。
一紺は酒瓶を手に取り、少しだけ残った中身を搾り取るように飲み干した。
息をつき、頭に巻いていた手拭で額と懐の汗を拭う。
「俺の不安が、俺に悪夢を見せとんのや」
夢の中で思ったことを、一紺は声に出してみた。
あれはあくまで夢であると、自分に言い聞かせるように。
「…分かっとるのに」
そして夢の中で呟いた一言をもう一度呟き、立ち上がる。
「…分かっとる筈なのにな」
独りごちて、一紺は部屋を後にした。
――まるで蔦のように、足元から手の先まで悪夢が全身に絡み付いているようだった。
こんな気持ちは初めてだ。
様々な感情が自分の中で渦巻いている。
胸やけにも似た感覚。それを洗い流すように酒瓶を呷るが、気分は晴れるどころか落ち込むばかりだ。
酒を飲んでも一向に楽しくならないのは初めてだった。
蘇芳の墓の前、腰に差していた刀を両腕で抱え、一紺は彼に向かって呼びかけるように言った。
「なあ、こんな時あんたやったら…どうすんのかな」
「…一紺」
風に紛れるほど小さな竜胆の声が、一紺の耳に届く。
「やっぱり、此処にいたのか」
「……」
竜胆が踏み締める乾いた草の音、そして風の音と微かな虫の音。
普段なら気にもしないような音が、静かな墓地に響くのを一紺は感じた。
「竜胆」
一紺が、彼女の方は振り向かずにその名を呼んだ。
「なあ、竜胆」
二度目は振り向いて――その表情は今まで竜胆が見たことがないほど、苦痛に歪んでいた。
思わず竜胆さえも戸惑う。
彼女はその場に座り込んでいる一紺の元へ屈み込んだ。
「一紺…」
そして、一紺の頬を優しく撫ぜる。
どうしたんだ、とは訊かなかった。
一紺の悲痛な面持ちを、ただ見つめることしか出来なかった。
そして次の瞬間、竜胆の身体は彼の腕に抱かれていた。