「意地悪なキスの痕」-5
「それが聞きたかったことか?私の、妻…」
「分かりません…」
「君は、本当に可愛い」
「やめてくださいっ、こんな時に…っ」
彼はふ、と酷薄そうな唇を歪めた。
楽しそう、と形容するのが正しい表情に、からかわれているのだろうと思った俺は恥ずかしくなって唇を噛む。
少し距離をとっていた二人の間を、彼が縮めた。
こつ、と床を踏んで俺の腕を掴む。
「何か勘違いしているみたいだが、私は未婚だ」
「……嘘、つかなくてもいいです」
「何故嘘をつく必要があるんだ」
「…だって」
(見た、から…)
数ヶ月前、若い女性と小さな子供を連れて歩く普段着の彼を。
自分の知らない彼だった。
こんなにも素敵な人が未婚だとは思っていなかったから、その瞬間は不思議と傷つかなかった。
ただ、真実を何も伝えられていなかった事に酷く痛んだだけだった。
「誰かに聞いたのか?」
「見たんですよ…っ」
自棄気味に叫ぶ。
この後に及んで隠されると、余計に辛くなるから。
「貴方が、商店街を歩いてるとこ…か、家族連れで」
「…いつの話だ?」
「だ、から…1ヶ月前ぐらいに…駅前の」
「…それだけで私の妻だと思ったのか。本当に馬鹿だな君は」
「っ、そんなこと!分かってますよ…!貴方が既婚者でも俺は」
言いかけた唇に、彼の人差し指が触れた。
「違う。そういう意味じゃない」
今にも泣きそうな顔をしていたんだろう。
俺の顔を見て、彼は言いよどむ仕草を見せる。
薄く形のいい唇。何度もキスして、何度も…。
それが開けば意地悪ばかり。
次はなんと言われるのだろうか。俺の胸は張り裂けてしまいそうになる。
「…証拠を見せればいいんだろう」
「…え、な、何を…?」
強く腕を引かれる。
彼は俺を強引に会議室から連れ出して、不思議がる同僚を目に車の助手席へと押し込んだ。
「課長、仕事が…」
「そんなこと、前からしてないだろう」
「そんなことって」
(そりゃしてないけど…)
何処へ向かうか分からない。
シートベルトを、と言ったきり黙りこむ横顔に答えも求められないまま、車は静かに走り出した。
途中、かなりのスピードを出した車は、やがて緩やかにスピードを落とし高級そうなマンションへと滑り込んだ。