投稿小説が全て無料で読める書けるPiPi's World

『二人の会話』
【その他 恋愛小説】

 『二人の会話』の最初へ  『二人の会話』 8  『二人の会話』 10  『二人の会話』の最後へ

『二人の会話』-9

「大丈夫。これが優しさなんかじゃないっていうのはちゃんとわかってる。君が優しい人間じゃないってこともよく知ってる」
 そう。これは優しさなんかじゃない。だからこそ僕は嬉しいんだと思う。葛西が僕を待っていたのは、僕のためじゃなくて、純粋に自分自身のためだ。そのことと、そのことを僕がきちんと了解できる。それが嬉しいのだ。葛西が葛西自身のために願うことに、僕が含まれている。
「それより、気付いてる?」
 僕は葛西に言う。
「君のほうこそけっこう機嫌がよさそうな顔をしてる」
「気のせいじゃないの」
 こくこくと咽喉を鳴らして水を飲み、葛西は言う。
「そうかもしれない。ところで、シチューは美味しい?」
「うん。とてもね」
 葛西は、ほんの数瞬、自分の頭の裏を見るように視線を右斜め上に向けてから、そう答える。
「それはよかった」
 その答えは、僕をまた少し幸せな気分にさせる。
 それから、僕らは言葉を謹んで食べることに集中する。シチューの匂いと、ボリュウムの小さい音楽と、向かいに座った人の気配が、柔らかな沈黙の膜を形成する。僕らはそれに包まれている。その質量を僕は確かに感じることが出来る。
「私のこと、可愛くない女だと思う?」
 いつだったか、そんなことを聞かれたことがある。形式的に「そんなことないよ」と返すことが期待されたものじゃなく、客観的な答えを欲しがっている質問というトーンだった。
「確かに、可愛くは無いね」
 と、だから僕はそう答えた。
「それでも、葛西と一緒にいると楽しいってことには変わりは無いけどね」
「優しくないし、思いやりもないし、自分勝手よ。それでも?」
「それでも」
 それに対して葛西は、「そう」とだけ言ったけど、そのころ僕はそれが葛西なりのありがとうだとは気付かなかった。
 葛西は、喋るときはよく喋るくせに、色々なことを言葉にしないままにしておく。多分、言葉にしてしまったらそれの本当の意味が失われてしまうことを知っているのだ。自分の心の中の感情と完全に一致した言葉が無いということをちゃんと知っているのだ。だからこそ大事にしたいことは蓋のある箱の中にしまったままにしておくのだ。
 食事を終えて、片付けも終えると、もう時計の短針は床の垂直に近づこうとしていた。今日という日ももうすこしで終わろうとしている。テーブルの上には昨日と同じようにコーヒーの入ったマグが二つ。きっちりと締め切った窓が冷たい夜の空気を拒絶し、部屋はエアコンと加湿器、それと僕らの体温でしっとりと温められている。音量がまた少し上げられたステレオはジャズの音色を響かせている。ゆったりとしたトランペット。
「これは?」
 と僕はステレオを指差して、ソファに寝そべっている葛西に聞く。
「マイルス・デイヴィス」と葛西は言う。「聞いたことある?」
「名前くらいは」
「まあ、有名な人だからね」
 葛西の部屋に流れる音楽の8割以上はジャズだ。僕のほうとしては、ジャズにはとんと疎くて、だから葛西の部屋で聴く音楽は殆どいつも僕にとっては名前の知らない音楽だ。それはそれで心地いい。名前の知らない音楽というのは、ただの純粋な音楽として耳に届いてきてくれる。余分な情報がくっついていない。
「それにしても、今時ジャズ好きな女の子というのも珍しいよね」
「いまどき」
 葛西はその言葉の響きが気に入らなかったみたいで、こめかみの辺りを二度ほど叩いてそれについて考える。
「自分では特に珍しいとも思わなかったけどね。そう、珍しいの。普通はどんな音楽を聴いているのかしら、今時の子は」
「僕の知る限り、流行のJポップだとかを主に聴いている子が大半で、次点でクラシック通な子が多かったと思う。まあ前者は仕方の無いことだとして、後者はどうしてだろうね。女の子ってどうしてクラシック好きな人が多いんだろう」
「上品で優しいからじゃない。女の子の中には、そういうのに憧れる人も多いわ。きっと上品で優しい音楽を聴いていれば自分もそうなるとでも思っているんじゃないかしら」
 くだらないわ。と、口には出さないが言っているように聞こえる。


 『二人の会話』の最初へ  『二人の会話』 8  『二人の会話』 10  『二人の会話』の最後へ

名前変換フォーム

変換前の名前変換後の名前