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『二人の会話』
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『二人の会話』-8

 時計を見ると、休憩時間はもう少ししか残っていない。漫画雑誌のページは殆ど進んでいない。まあいいか。それほど読みたいものだったわけじゃないし。

 バイトは大した仕事ではないから、それほど疲れるわけではない。それでもわずかな疲労感を、服の裾のほつれのように僕は引きずっている。帰り道、というのはそういうものだ。そのほつれをすっきりと切ってくれるものを求めて歩を進めるのが帰り道というものだと思う。
 階段を上って、短い廊下を歩き、インターホンを押す。しかるべき間隔、特に誰かがこの時間にこの部屋を訪ねてくる予定なんて想定していなかったという風な間隔、が置かれた後。ボタンの上のスピーカーから
「あいてるわよ」
 と、しかし明らかに僕だけを想定した声が聞こえる。僕はドアを開け、部屋の中に入る。
「おじゃまします」
「外は寒かった?」
 ソファにうつぶせという格好で葛西は言う。左手には昼に見たのと同じ本がある。
「季節どおり。雪は降ってはいなかったけどね」
 僕はコートを脱ぎながら、ビーフシチューの匂いに気付く。よかった、まだちゃんと残ってるみたいだ。
「鍋をあたためて」
 上体をめんどくさそうに起き上がらせながら葛西は言う。
「残しておいてくれたんだ」
 僕は言いながらキッチンスペースに行き、シチューの入った鍋のコンロに火をつける。蓋を少し開けて見ると、鍋の中身は全く減っていなかった。
「食べなかったの?」
 驚いて僕は、葛西に語りかける。
「こういうのは時間をかけて煮込むほどおいしいのよ」
 リモコンでステレオを操作しながら、ぶっきらぼうに葛西は答える。室内の音楽の音量が2段階ほど下げられる。
「そうなんだ」
「そうなの」
「じゃあ二人で食べようか」
「そうね」
 食器棚から深めの皿をふたつ出して、シチューが温まるのをかき混ぜながら待つ。僕が切った人参と、ジャガイモ、葛西の切った玉ねぎとブロッコリーがかわるがわる顔を出し、その度に匂いをはじけさせる。ぐつぐつと鍋が言い出して、もう少ししてから、火をとめて皿に盛る。その間中、葛西は自分がもてなされる客のようにしてソファに座ったままだ。
「なにか飲む?」
 葛西の背中に語りかける。
「今日は水でいい」
 振り返らずに葛西は答える。
 テーブルに準備を整えて、葛西と向かい合って座る。
「いただきます」
 と僕が言う前に、葛西はもう食べ始めている。僕もスプーンを手にとってひと匙すくって口に運ぶ。美味しい。と素直に思う。
「やっぱり」
 葛西がぼそりと呟くように言う。スプーンの先を口につけたままで。
「やっぱり、待っていなきゃよかった」
「どうして?」
「気付いてる? あなた、すごく機嫌がよさそうな顔をしてる」
「うん」
 また一口、シチューを口に含みながら僕は答える。ずっとその身を鍋に浸していた野菜は柔らかく、噛むと口の中で、自らの意思で広がっていくように簡単に崩れる。
「これじゃまるで私があなたに優しくしたみたい」
 コップに入った水を飲むと、その温度差に口の中が爽やかに洗われる。
 僕は軽く笑いながら葛西に答える。


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