『二人の会話』-4
「難しい質問だ。なにしろ僕は犬を飼ったこともないし。率直に言えばよくわからないな。悲しいかもしれないし、悲しくないかもしれない。でも、それが本当に自分とほとんど関係の無い犬だったとしたら、悲しくないね。だって今、葛西の家の犬が死んだことを聞いても僕は悲しくない。気の毒だとは思うけど。だから、僕が思うに、きっと葛西にとってその犬は、自分とほとんど関係の無い犬なんかじゃなかったんだよ」
「ほとんど会っていなくても?」
「会っているか、会っていないか。好きか、好きじゃないか。役に立つか、役に立たないか。近いか、遠いか。そういう文脈だけで、自分と関係があるか無いかは決められるものじゃない。それに関係というものは、もう、という言葉で切り捨てることができないものだと僕は思う。それは過去によって固定されている。今や未来がどう変わろうと、葛西とその犬が過去に飼い主と飼い犬という関係だったということは変わらない」
「いつのまにか関係という言葉に関する考察みたいになってるわよ」
「葛西の癖がうつったんだ。いつのまにか変な方向に話がいく」
「私はそんなことしない」
「してるよ、よく」
そう言って笑いかけると、葛西は不機嫌である、とわざと表現するような表情でコーヒーを啜る。その表情が、いつもの葛西のもので僕は少し安心する。こういう時の葛西の機嫌は、見た目と反して悪くない。僕も自分のコーヒーに口をつける。やっぱりここのコーヒーは美味しい。葛西はサンドイッチを齧り、咀嚼する。不味そうに、ではなく、美味しそうに。その姿で、なぜか僕は忘れていたことを一つ思い出す。
「そういえば、犬を飼っていたことがあったよ。忘れてたけど」
「どういうこと?」
「僕が本当に小さいころ、僕の家では犬を飼っていたみたいなんだ。でも僕が物心ついたころにはもうその犬は死んでいた。だからその犬に関する具体的な思い出というのは殆ど無いんだ。僕がよく覚えているのは、その犬の墓についてのことだね」
「墓」
僕の故郷は、海が近い小さな町だった。僕が小さいころ、父はよく僕を散歩に連れて行ってくれた。行き先は近所の神社だったり、港だったり、少し遠い公園だったり、色々なところだった。行き先はどこでもよかった、散歩だから。その行き先の一つに、「カールのはか」があった。カールというのは犬の名前だ。海沿いに広がる防砂林の中、簡単には人目につかないが、苦労せず歩いていける場所に、長い板が地面に立てられていて、「カールのはか」と書かれている。「カールのはか」の前に着くと、僕は父に促されるままに、意味もよく分からず手を合わせた。墓というものがどういうものなのか、当時の僕でも知ってはいたが、「カールのはか」の下に現実の犬の死体が埋まっているなんて一度も想像したことがなかった。僕にとって「カールのはか」は、飼い犬の魂の眠る特別な意味を持った場所ではなく、単に散歩の動機付けのために設定される便宜的な目的地の一つに過ぎなかった。
「だから、僕の中に生きたカールは居ない。死んだカールも居ない。あるのはカールのはかだけ」
「でも私の中には、生きた犬がいる。そう言いたいの?」
「そうなるかもしれない。この会話にうまく結論をつけるとすればね。でもひょっとしたら別の結論が出てくるかもしれない。どうとるかは葛西の自由だよ」
「むかつくわ」
葛西は下からじとっと僕を睨む。
「なんだか物分りのいい先生みたい」
「物分りがよくて親切な先生」
僕は訂正する。葛西は不機嫌そうにサンドイッチを一つ平らげ、コーヒーを飲み干す。食欲のなさはどこへ行ったのだろう。それから、卵サンドだけがぽつんと残された皿を僕のほうへ、つい、と押し出す。さも当たり前のことのように。僕のほうも、慣れた手つきでその卵サンドをとって口に運ぶ。葛西は卵サンドが嫌いで、僕は卵サンドが好き。その情報は随分前から、二人の間の共通の認識であり、葛西の食べるものの中に卵サンドがあるときは僕が食べるという行為は、少し前からの二人の間の暗黙の了解だ。