『二人の会話』-2
葛西をベッドまで運び、布団の中に首元までしっかりと埋めるように押し込み、エアコンにオフタイマーをセットし、豆電球1つだけ残して部屋の電気を消す。静かなオレンジの光の中で、彼女の寝顔はある1つの文化を完結させた古い美術品のようにも見える。価値があり、美しく、しかし何処へ向かうことも無い。壊れやすく、触れることの出来ない、眺めるだけの存在。今は閉じられている2つの目を見る。さっきまで僕を見ていた目。針のように鋭く、自信に満ちた目。見たものの殻を穿ち、内部の奥のほうまで詳細に渡って看破するような。そんな目に正面から見つめられるのは、普通、居心地のいいものではない。しかも葛西の場合は、性格までそれに順じている。強いのだ、つまり。そういう人間は、集団から疎外されやすい。その疎外の仕方には大きく分けて2種類ある。爪はじきにされ、無視されるか、上位に置かれ、敬遠されるか。要するに、カーストの下部に追いやられるか、上部に担がれるかだ。葛西は頭のいい人間だから、きっといつも後者の立
場を選ばされることになっただろう。
テーブルに載っている2つのマグを手に取る。1日の名残そのもののように底のほうにまだ少しコーヒーが溜まっている。それを流しに捨て、なるべく音をたてないように洗って、水切りカゴに置く。
ドアにくっついている郵便受けの中に、ぽつんと置き去りにされている鍵を取ってから外に出て、施錠した後に、また鍵を郵便受けの中に押し込む。カタン、という無為な音を立てて鍵はもとの寒々しい暗がりに帰っていく。再び、いくつかの不必要な報せの中に埋もれ、いくらかの不必要な時間を過ごすことになる。この何の飾り気も与えられていない金属片に、哀れみと、少しの共感を覚える。ほんのひと時、人の手の温もりを感じ、それ以外は、死んだ時の中でただ待ち続ける。この間手に取られたときの具体的な温度を思いながら。あるいは、この次に手に取られるときの架空の温度を思いながら。
帰り道は、雪の白で覆われていた。細やかで軽い雪は、実直な重力よりも気紛れな風の流れと強く結びついていて、その不規則な動きは傘で捉えづらい。まとわり付く無数の雪の粒は、ろくに防水のきかない安物のダウンジャケットに張り付き、やがて溶け、染みとなって残る。その染みはまるで思い出になり損ねた過去の出来事のように寡黙で匿名的だ。傘を持たないほうの手で、まとわりつく雪を払う。そんなことをしてもまた新しい雪がつくのだから無駄なのかもしれないが、そうせずにはいられない。誰が何と言おうと、1000と1001は違うのだ。そうしながら僕は考える。今日という日の一体どれほどの部分が僕の中で記憶として残り、生き続けるのだろうか。残ったとして、それらはどれくらいの重みを保ち、在り続けることができるのだろうか。具体的な出来事は、数秒後には輪郭がぼやけ実体を失う。そしていくつかの過程を経て、最後には、抽象化された言語情報として残ることになる。『葛西と一緒に酒を飲み、酔いつぶれた彼女を家まで送り、部屋に少しの時間上
がって、それから帰った。帰り道には雪が降っていた』そこには、合鍵の冷たさや、雪の質感、葛西の声の震えは失われている。残されるもの、捨てられるもの。いちいち秤にかけるまでもなく、捨てられるもののほうが圧倒的に多い。可能性、というものを考慮に入れるなら、僕らは多くのものを捨て、少しのものだけを拾っている。そして拾い上げたものがその時点で本当に重要なものなのかは分からない。生活を送る、とはそう言うことなのかもしれない。雪の降る夜の帰り道。この状況はよくない。大抵の人間は悲観的になる。僕も例外じゃない。憂鬱な気分を溜め息に乗せて外に出す。冷たい空気で白く具現化されたそれはしかし、全体のほんの一部だ。今日の僕の(葛西の言う所の)親切で、葛西が晴らした憂鬱が恐らくほんの一部であるように。
午前10時頃に葛西から電話が来た。
『勝手に帰らないでよ』
いかにも寝起きらしい、不機嫌な声で葛西はそう言った。部屋の壁に掛けられている時計を見て、葛西の睡眠時間を逆算してみたが、やれやれ、結構な時間寝ていたみたいだ。
僕は今、葛西の家の近くの喫茶店に向かって歩いている。静かで客が少なく、料理の味は中の下だがコーヒーの味は悪くない店だ。そこに来て、と言われた。大体葛西と待ち合わせるときはその店を使う。
それにしても、人を呼びつける理由が「勝手に帰らないでよ」とはまたなんとも葛西らしい。勝手に寝たのはそっちなのに。素直に会いたいと言ってくれれば可愛げもある、と思ったが、携帯を持って弱々しい声で「会いたい」と言っている葛西の姿を想像するのは、シマウマと楽しげに戯れるライオンを想像するより難しい。
店の中はいつものように閑散としている。葛西は角のボックス席に座って本を開いている。おそらく、いつも持ち歩いている詩集だろうと僕は思う。テーブルの上にはコーヒーと、四角く切られた小さなサンドイッチが4切れ載った皿が手付かずのままある。ほとんど待たせてはいないみたいだ。