昆虫の夜-1
「私、妊娠したの」
女の言葉にオトコは動揺した。あまりうろたえるタイプではなかったが、男にとって全くの想定外だったため動揺を隠す余裕がなかった。・・・・・・いや、もちろん自分だって健康な男だ。やれば出来る可能性があると言う事は判っていた。だが男は気をつけていたつもりだった。世間一般の男と同じように。自分の身にそんなことが起こる可能性が頭の片隅に浮かんだ事も無い。自分だけは例外だと思ったのか。
まさしくその通り。自分だけは例外だと思っていた。
不安げな表情で女は男の表情を観察していた。男は視線の訴えに耐えられずに床を見つめた。フローリングの床は綺麗に磨かれている。女はとても綺麗好きだった。
ちょっと神経質な性質なのかもしれない。部屋もいつ来ても綺麗に片付いていたし、彼女が何かを探している姿も見たことは無かった。全てのものがあるべきところにきちんとある展示ハウスのような家だった。おおよそ生活感の感じられない家。ははっ、まるで待ち構えてたみたいだな。男は思った。いつでも結婚して子供を産んで暮らせる家だと今までは思ったことが無かったが、こういう事態が起こってみるとまさしくそんな感じが臭ってきた。ちょうど人が少しずつ火のにおいを嗅いでいても鼻が慣れてしまって気付かないが、一旦カーテンを駆け上り換気扇が解けた羽を周囲に撒き散らし始めたのを目にする時に火と油とプラスチックの焼ける強烈なにおい。男には初めから仕組まれていた、そんな感じがしてならなかった。
男の動揺を見越したように、女が畳み掛けてきた。
「私、妊娠したの」 女の声は、消え入りそうな泣き声だった。その声に男は現実に引き戻された。そんなに問い詰めないでくれ、少しだけでも考える時間をくれよ。そう胸の内で叫んでいたが、女は今、結論を求めている。今降ろせといえばどう反応するか男には想像もつかなかった。もしかしたらこのまま2度と会えなくなるだろうか。だか遅かれ早かれ別れる事にはなりそうだ。男は1人の女と長続きした事が無かった。大体において男が新しい女を見つけモノにしたら古い女とは終わりにしていた。別れるのはかまわない。だが今別れるのはあまりにも勿体無い。せめて後2,3回くらいは楽しみたい。別れるのはその後からでも遅くは無い。撒けるだけ撒いてとっとと退散、男とはそういうものだ。それが本能というものだ。
男は女に腕を廻してそっと、しかし力を込めて抱きしめた。心からの抱擁だと思ってくれるだろう。なんせこの女は自分を愛しているのだから、疑うはずが無い。
「ごめん、ちょっと驚いてしまって。でも嬉しいよ。ちょっと早い気もするけど僕がお父さんなんだね」 女は大きな瞳でうなずいた。
「ごめんなさい。でもどうしても産みたいの。許してくれる?」
「あぁ、もちろんだよ」
男は結婚の約束をしないように細心の注意を払って言った。もちろん産みたければ勝手に産めばいい。俺に迷惑が掛からないようにだが、心の中で付け加えたが口には出さなかった。男は女の顔を手のひらで挟み込み、女にやさしくキスをした。男は女の身体がぽっと熱くなり、火照っているのを感じた。手をずらし背中のファスナーを下げると女の服はあっけなく脱げて、男は女の吸い付くような肌触りを手のひらで味わった。後2、3回くらい楽しみたい?いや、冗談じゃない。後5、6回・・・・・・いやヤレるぎりぎりまでやってやる。
「愛してる?」
「もちろん愛してるよ」 まだ手放す事を惜しいと感じるほどにはな。
心の中でそう付け加えた。
「こっちに来て・・・」 女は男の手を握りバスルームのほうへ導いた。
女は男の手を体中にまとわりつかせながらバスルームへ入っていった。男の手が女の腹を撫で乳房を掴み太ももの間に忍び込んでくるのを感じていたが、それよりも気が狂いそうな歓喜を全身で感じていた。
私の子供。
ついに私の子供。
女は腹に手をもって行くたびに、喜びが身体の中を貫いて行った。