《glory for the light》-32
(気に入った?)
(ええ、凄く。…でも、二つあるなら、一つは君にあげるわ)
僕は百合の手を制した。
(駄目だよ。つがいなんだから。離したりしたらいけない。いつでも二匹一緒じゃなきゃ)
僕がそう言うと、彼女は、なるほどね…。と呟いて、並んだ蒼い亀を天井のライトに照らしてみた。照明にガラスで出来た体が反射して、キラキラと輝いた。
僕たちは水族館を出ると、露店でホットドックを買い、遅めの昼食にした。食べ終わると、近所を散策し、CDショップや本屋に寄った。それだけで楽しかった。街中をあてどもなく歩き回り、疲れるとファミレスや喫茶店で休憩し、また歩く。日が暮れる頃、僕等は地下鉄に乗り込み、それぞれの駅で別れた。アパートに帰り、シャワーを浴びた。
NHKでドイツ語会話の再放送を見た後、買ってきた本を読む。オースターの織り成す物語はなかなか素敵だったが、活字から目を離すと、マスターの言葉を想い出し、集中力を欠いてしまった。
「ケリを着けろ…か」
今日は楽しかった。肩の力を抜いて、百合と一緒にいられたのは久方振りだった。けれど、まだ彼女の中では、完全に僕は僕として確立されてはいない気がする。どうすれば良いのだろう。
僕は読みかけの本を閉じ、瞳を閉ざす。
明日は日曜だ。もう一度百合を誘おうか。予定は、ないだろう。彼女に友人はいない。バイトはしていたっけ?いや、少なくとも日曜は大丈夫だ。以前、日曜日に二人で出かけた経験がある。行くとすれば、何処へ?
僕は一週間ほど前の百合を想い返した。
彼女が喫茶店に来た日、彼女は言った。自分と逢うのが怖いと。想い出と向き合うのが怖くて、百合は帰省もできずにいる…。
―行こう。彼女の街へ。そこで百合が過去と決別できなければ、僕等は前に進めない。百合に取っては、辛いことかもしれない。けれど、このままではいけないことは明白だ。過去を振り返っても悲しみが込み上げるだけ。未来を夢見ても今を嘆くだけ。二つのアンビバレンツを今に生かすためには、今、何かを成さなければならない。
僕は携帯を手に取ると、迷わずに百合に電話をかけた。僕が彼女に電話をすることなんて殆んどなかったから、彼女は驚いていた。
明日、君の街に行こう。僕はそう伝えた。電話越しで、彼女が戸惑うのが分かった。
僕は精一杯の言葉で、百合に伝えた。想い出から逃げたって、何も変わらない。この街で傷が癒えるのを待っていても駄目なんだ。分かるだろ?この街は、日々変わり続けている。此処にいても、過去は過去のまま、君と共に置き去りにされていくだけだから。君の街へ行こう。そこで何をすれば良いかは分からないけど、何かは変わるはずだから。
…僕の言葉は、どれだけ彼女に伝わっただろうか。百合は暫しの沈黙の後、僕と一緒に彼女の街へ行ってくれることを約束した。百合の街は遠く、色々と準備が必要らしかった。僕等は出発の日時を決め、電話を切った。