《glory for the light》-23
―10分後。
再び誰もいなくなった店内で、僕はやることもなく、本来の主人の帰りを待っていた。頬杖をつき、消閑のために窓辺を眺める。
窓ガラスを貫き、店内を薄い光の幕で彩る斜光に、花瓶の紅い華が照らされていた。マスターに花を愛する趣味はないので、アカネが用意したものだろう。意味もなく華を眺めていると、扉が開き、ベルがカランコロンと鳴り響く。客か、マスターか、それともアカネか。僕の予想は全て外れた。
(百合?)
シックな服に細い体を包んだ彼女は、僕を見ても驚かなかった。
(こんにちわ)
百合は上品に微笑んで言ったが、驚く僕を見て何処か楽しんでいる様子でもあった。
(こんにちわ、じゃなくて、どうして此処を?)
僕が訊くと、彼女は物珍しそうに店内を見渡しながら答える。
(…ずっと前に君が話してくれたのを思い出して、記憶を頼りに探したの)
百合はそう言うと、静かな物腰でカウンターの椅子に座る。
確かに、僕がこの喫茶店で働いていることと、ここの場所を教えたことはあった。けど、それは会話の成り行き上、大分アバウトな説明だったし、まさか覚えていてくれてるとは思わなかった。
(携帯に電話してくれれば良かったのに。探すって言っても、時間かかったろ。ここら辺、結構複雑だから)
(だって、この時間は大学へ行ってると思ったから)
僕に逢うために訪れたという期待を打ち消す言葉だった。
(早退したんだ。気分が乗らなかったし。百合はどうしたの?僕が行った時はいなかったけど)
僕が尋ねると、百合は曖昧に笑って唇を開いた。
(うん…ちょっとね)
ステレオから溢れる音楽をよそに、僕はその言葉の先に耳を傾けたが、彼女の口はそれっきり閉ざされてしまった。漂う沈黙に、彼女の、これ以上この話題を続けたくないという意思を感じて、僕はその意思を考慮した。
(あ、何か頼む?)
(うん。じゃあ…コーヒー下さい)
コーヒーを用意しながら、僕はマスターが出かけていることに感謝した。
(他の店員さんは?)
僕が仕事をする様を、興味深そうに眺めて百合は尋ねた。
(マスターは今、お使い中です)
お使い。という言葉を聞いた百合は軽く吹き出した。
(お使いって、普通はバイトの人がするものではないの?)
(僕は優秀なんだ。店長をパシリに使える程にね。次期店長の座も約束されている。就職活動の手間が省けて助かってるよ)
僕の下らない冗談にも、百合は笑みをこしらえてくれた。笑みを絶やさぬまま、彼女が言う。
(アカネちゃんも、ここでバイトしてるんだよね?)
カップにコーヒーを注ぎながら、僕は彼女の瞳を覗く。アカネなら其所にあるはずの、剥き出しのジェラシーは見受けられない。単なる世間話をする時と変わらぬ視線だった。
(ああ。良く覚えてるね)
少し寂しい気を押さえて、僕は言った。
(砂糖とミルクはどうする?)
本当はセルフサービスだけど、アカネの話題を反らすために尋ねた。
(結構です。甘いコーヒーって苦手なの)
コーヒーはブラックで。それは僕と同じ嗜好だが、アカネとは対極だった。アカネは見ている方がげんなりするほど、砂糖とミルクを入れるのを好んだ。
(粗茶ですが)
僕はカップを差し出しながら、百合と自分の間に発見した些細な共通点を喜ぶ。
(いただきます)
彼女は律儀にそう述べると、カップの温もりを味わうように両手でそっと包み込んだ。やがてそれを口許へ運んだが、猫舌なのだろう。百合はカップに口を付けて、その熱さに思い止まるかのように唇を離した。
(…さっきの話だけどね)
コーヒーが冷めるのを待つついでといった感じで、彼女は再び口を開いた。さっきの話とは、アカネのことだろうか。
(さっきの話?)
百合はカップに揺れる黒い水面を見つめながら言った。
(今日、私がなんで大学に行かなかったのか、という話。やっぱり君には話しておこうと思って…)
僕は内心で安堵し、また、僕に何かを伝えたいという意思があることを嬉しく思いながら領ずいて、続きを促した。
(…いつか、私言ったでしょ?大切な人を亡くしたって)
大切な人を亡くした。その影りを秘めた声を嘲笑うかのように、店内を包む音楽はハイテンポだった。それでも、僕は百合の唇が紡ぐ言葉に、耳を塞ぎたくなるような悲しみの残り火を感じた。その火を消すことが如何に困難であるかを知っているから、辛いのだろう。
(…今日がその人の、命日なの。だから、帰郷して回忌に顔出してこようかなと、思ってね)
百合の口調は、至って平坦だった。そこに隠れた悲しみを知る人は、僕も含めて何人いるのだろう。
僕は椅子に腰かけて、押し黙ったまま彼女の言葉を待った。