《glory for the light》-22
「ああ、やっぱり残ってないな…」
「残ってないって、何が?」
「ほら、昨日紅茶の葉、きらしたろ?買っとくの忘れたんだよ」
背を向けて落胆するマスターに、僕は呆きれた視線を投げる。
「…普通、残りが少なくなった時点で買っておくものです。なくなってから買ってたら間に合いませんよ」
マスターは振り返り、焦燥を呈して言い訳を吐いた。
「まだ買い置きがあると思ってたんだよ」
やれやれ。僕は口腔で呟く。まるで小学生の弁解だ。
「僕が買ってきます。何処に行けば手に入るんですか?そこら辺のスーパーで買える品じゃないでしょう」
店のメニューに紅茶が追加された発端はアカネだが、今となっては彼女だけではなく、多くの客がオーダーをする人気メニューだ。お茶類のない喫茶店ほど主旨に反した店はないし、今の内に仕入れていた方が賢明だろう。マスターが頭を振って言った。
「いや、口頭じゃ分からんだろう。俺が行く。お前、店番頼んだぞ」
僕の返答も待たずにマスターは店を出て行った。慌ただしい人だ。
V-MAXがまだ温もりを残していたことを考えれば、僕が来る前にも代わりの紅茶を探して奔走していたのだろう。
僕は辺りを見回して嘆息する。思えば、独りきりで店番を勤めるのは初めてだ。飲料類ならばなんとかなるが、食事を注文されたら困る。調理の手順は頭に入ってはいるけど、やはり経験不足なのは否めない。
僕は誰もいない店内をぐるりと一望し、ひっきりなしに溜め息をついた。
十分もすると、ちらほらと来店者が現れ始めた。平日の昼間だというのに、制服を着たまま煙草を吹かす中学生。疲れた顔をして静かにコーヒーを飲むサラリーマン。なんだか皆やるせない表情をしていた。そして、皆が孤独だった。数人グループで訪れる客は本当に稀で、殆んどの客は一人で来る。多忙な仕事の合間にその理由を考えてみたが、僕が納得できる答えは見付からなかった。
一人で店を切り盛りしてから一時時間が経過しても、マスターは帰ってこなかった。コーヒーやサンドイッチ、ピザトーストは危なげなく作れたが、ナポリタンには少し骨を折った。専用ケチャップの他にも三種類のソースを使用する特製品で、その比率が分からず、適当にごまかしてしまった。クレームの声は上がらなかったので、出来は憂慮したほど悪くはなかったのだろう。
昼のピークを過ぎると、店内は先程までの殷賑さが嘘のように元の静けさを取り戻した。天気予報によると午後からは大雨が降るらしいので、外出を控えている人もいるのかもしれない。ようやく落ち着くことができ、僕は息を深く吐いて椅子にへたり込んだ。
ステレオから流れる、ホリー・コールの哀愁的な唄声。耳朶を優しく触れては、部屋を満たす静けさの中に溶け込んでいく。
緩やかなメロディに耳を傾けながら、午前中の出来事を反芻した。アカネは、今日はバイトに来るだろうか。もしもこなかったら、後で電話をしよう。何を話せば良いのか分からないが、取りあえずは謝っておくべきだ。僕が謝る理由もないように思えるが、意地を張っても関係は修復されない。
(難しいもんだな…)
軽く呟き、僕は皿洗いを始める。
―20分後。
マスターは戻ってこなかった。三十代半ばと思しき女性が一人来て、オレンジジュースを注文した。半分ほど飲むと、彼女の携帯電話が着信音を鳴らした。見ると、窓の外にフェアレディが止まり、中で若い男が手を振っていた。待ち合わせていたらしい。彼女は嬉しそうに男に微笑むと、会計を済ませて彼の車へと駆け込んだ。不倫だろうか。何となくそんな気がした。もしそうだとすれば、夫は元より、子供に申し訳ないと思わないのだろうか。自分の母親がそういう行為に及んだことを知った子供の気持ちを、二人は考えたことがあるのだろうか。僕はその痛みを知っている。たとえ親子の間に愛情はなくても、その時に覚えた痛みの意味を、僕は忘れられないだろう。実家にいる弟を想い出し、僕は無性に哀しくなった。情けないほどにセンチメンタルな想い。そんな感情が胸を襲う度、百合の声が聞きたくなるのは、何故だろう。恋とか、俗的な意味だけでは包括できないような気がした。僕は百合に何を求めているのだろう。アカネは僕に何を求めているのだろう。そして、百合は僕に何かを求めてくれているのだろうか…。