《Loose》-5
「無理だよ。自分の器位は自分で分かるさ。悲観する訳じゃなくて、現実的に、無理がある」
僕は苦笑を交えながら言った。すると早紀は、一瞬だけあの表情を浮かべる。儚く、遠い、哀愁的な刹那の顔に、僕の胸は痛んだ。
(ナゼワタシノキモチヲワカッテクレナイノ?)
切なげな瞳を通じて、彼女は僕に訴える。溢れ出す秘密の意思を持って、その光はこの目を貫いた。僕はそこに、確かな哀しみの色を見付ける。踏み出す路面が無償に冷たく感じた。
「…本当にさ。考えておいてね。私の言葉、忘れないで」
早紀は、笑顔で憂いを覆い隠して、再び前を見据える。それは罪悪感を抱くほどに、悲しい強さだった。
「ああ…考えておくよ」
彼女の表情を見たら、そう言うしかなかった。これ以上彼女を追い詰めて何になる。早紀のつたない強がりを、踏みにじるほど愚かにはなれない。
僕たちはそれっきり、口を閉ざした。言葉を口にすれば、想いが傷付き、血が流れる。邂逅からたったの二ヶ月しか経っていないのに、僕等の繋がりはもう、そんな場所にまで来ていた。今更他人の振りをして歩けるほど、歩んできた道のりは無意義じゃない。
「私の家、行こうか」
早紀が沈黙を破る。僕はうなずく。荷物を片手に、互いの手を片手にし、二人は無機質な街並みから逃れようとした。僕等の居場所は何処にあるんだろう。一つだけ分かることは、この街に答えはないということ。
早紀の部屋は、実に彼女らしかった。女の子らしさを強調する物は皆無と言って良い。本棚に並ぶ雑誌は、殆んどが音楽関係。壁に貼られたポスターはアイドルの代わりに、海外のロックスターがその場を埋めていた。開け放たれた窓からは、一陣の風が吹き込み、ヤニで黄ばんだレースのカーテンを揺らしていた。スタンドに立ち並ぶギターと、微かに部屋に染み付いたセヴンスターの香りが、早紀の温もりを感じさせる。
煙草を吸い、ギターを弾き、CDを大音量で響かせた。互いに、僕の『歌』については一切触れなかった。
早紀がCDに合わせて口笛を吹き始めた。ギターと違い粗末な音色だったが、それは不思議と、僕に耳に心地良く聞こえた。
世の中を冷めた瞳で見つめるくせに、ラッキーセヴンの縁起を頑なに信じる彼女。無垢な想いを込めて、セヴンスターを吹かす彼女。クリスチャンでもないくせに、断罪の十字架を愛する少女。そして、人には分かち合えない痛みを抱えた彼女。その全てを、僕は心に刻もうとしていた。あるいは、いつか訪れる別れに備えていたのかもしれない。理性ではなく、心の片隅で、いつか早紀が、僕の側から離れることに、僕は気付いていた…。側に居て当たり前だとは思わない。絶対を相対に転じる何かが欲しかった。それが如何に困難なことかも、僕は知っていた。
さんざめく蝉の声が、消え逝く命を惜しむ断末魔の叫びにも似ていた、夏の日々。街を走る風が、炎天に苦しむ人々に一抹の癒しを与える夏の日々。そして、早紀と共に微笑み合った夏の日々。浅き眠りに見る白昼夢のように、それらは過ぎ去ろうとしていた。
バイト帰り、僕たちは河川に沿った堤防を通って家路をたどっていた。日は傾きの渦中で、遠くの空を茜色に灼いている。
「ちょっと座ろうか」
夕日に瞳を紅く染めた早紀が言った。
「いいよ」
二人はコンクリートの塀に腰をかけ、穏やかな河の流れを見送った。
「夏も終わるわね」
早紀は煙草を口にくわえて呟いた。
「そして秋が来る」
僕は応えた。
「冬が来る前に、訊いておきたいことがあるの」
「何?」
僕は彼女の煙草に火を付けてやった。
「神崎はさ、誰かを愛して、その愛を不安に感じたことはある?」
紫煙を吐き出した後、夕陽に目を細めながら彼女は述べる。
「愛する人が、信用できなくなったことがあるかどうか。そういうこと?」
「…信用はしてるの。けれど、それが正しいことなのかどうか、分からないの。例えば、私が誰かと結ばれることで、他の誰かが深く傷付くとしたら、その愛は正しいと言える?」
早紀の言う他の誰かが、僕ではないことは確かだった。
「犠牲をともなうから、愛を放棄する。少なくとも、僕はそれほど殊勝じゃないな」
「それは何故?」
「他人の幸せよりも、自分と、自分を愛する人の幸せを選ぶからさ。僕はイエスでも仏陀でもないからね。人は誰でも我が身が可愛いし、自分だけの幸せを築く権利がある」
「でも、他人の幸せを奪う権利はないわ」
僕は早紀の横顔に目を馳せた。そこにあるのは、罪悪感、だろうか。その瞳は潤んでいた気がする。それでも、何処か毅然としていた。