《SOSは僕宛てに》-9
気が付けば、少女は涙で頬を濡らしていた。ようやく見付けた想いの発露に、耐えきれず溢れた透明な雫。青年は、そっと彼女の涙を指で拭い、何も言わずに見つめていた。あるいは、その想いの丈を、言葉で伝える事も可能だったのかもしれない。けれど、彼はそうしなかった。もしそうすれば、彼女を傷付けてしまうという事が分かっていたから。しかし、少女はそんな偽りの優しさなど求めては居なかった。例えそれが自分の期待に応えてくれるものではなくても、本当の、彼自身の言葉が欲しかった。それが今の、心の瞳を開き、少しだけ強くなった彼女に対する、本来の意味での優しさで在り、礼儀でも在った。しかし、青年はそれに気付いてはいなかった。認めたくなかっただけかもしれない。自らの傷は癒せなくても、人を癒す事はできると信じていた。ようやく一歩を踏み出した少女を、自らの言葉で再び傷付ける事は、それを、つまりは自分自身を否定する事になる。少女の説得も虚しく、青年は結局の所、心の行き先を失ったままだった。
これ以上、自分が傷付くのが怖くて、少女を傷付ける(少女に取ってはそれが優しさでも)勇気がなかった。それは彼なりの優しさと呼べる程、殊勝な想いではなく、卑しい自己擁護に過ぎなかった。青年は立ち上がり、哀しげにうつむく少女に一言だけ謝辞を掛けると、夕日を背に立ち去った。見る者が居たら、その背中はとても、ちっぽけで哀れに見えたかもしれない。辺りには、独り、少女だけが取り残された。少女はうつむき、夕日から目を反らし、静かに暗闇の訪れを待った。いつまでも…いつまでも…。
僕は本を閉じた。何故か物語は此処で終わっていた…。これが完結と言えなくもないが、余りにも唐突過ぎる気がした。時計を見る。午後11時。僕は再びページを開き、吟味する。気のせいだろうか、続きが読みたいと思わせる内容ではないが、その終り方には何か、作者の意図的なものを感じた。敢えて語らぬ事で、何かを伝えたかった。そんな気がしてならない。切ない読後感ではなく、ミステリー小説の謎解きをしているような、違和感。何かが心に引っ掛かるのだ。けれど、その何かが出てきそうで、出てこない。あるいは、それは僕の思い過ごしで在り、中途半端に物語が完結しているのは、単なる作者の力量不足なのかもしれない。むしろその方が自然だ。もし作者がこの物語を一流の小説として世に出すだけの力量を備えていれば、他にも著作が在る筈。僕は海外小説の読書家と自負しているのだが、例え読んだ事はなくても、日本で翻訳出版されている小説の作者は、名前だけなら大抵は知っている。それなのに、この本の作者に心当たりがないのは、やはり作者自身が余りにも無名だという事。
ベストセラーが皆、面白いとは限らない。往々にして名高い駄作というのが存在する。しかし、全くの無名作は、やはりつまらないのが事実。つまり、名作と呼ばれる物の中には、実は駄作も存在する。しかし、駄作が名作に成る事はない。誓って矛盾している訳ではない。前者の例を挙げるとすれば、明らかに文才のない芸能人が、自らの巨名を売りに書いた私小説だ。もしくは、CGや配役の出来でヒットした有名映画の、純粋に物語として考えれば二流と言わざるを得ない映画(映画として一流の物は、小説として成文化した場合、亜流に成り下がる場合が多々在る)のノベライズ小説だ。それらは在る程度の名声を得た上で出版されている訳だから、売れない筈がない。それは日本人の文学に対する美意識の低下を表しているが、作者が新人で在り、何らかの因果により元々駄作で在る本を出版できたとしても、それが意味もなくベストセラーに成る程、日本の文学界はまだ腐敗していないという事だ。そう考えると物語の結末が不完全なのは、意図したものではなく、作者自身の才能の欠如が原因だろう。いや、あるいはその両方か…。
そこまで考えて、僕は重要な事を思い出した。ベッドから身を起こし、机に向かう。ルーズリーフを一枚取り出して、ペンを握る。翔子に手紙を書かなくてはならない。何から書き始めたら良いものか…。当たり障りのない挨拶から入り、本の感想。取りあえずの段階を練ると、僕はペンを走らせた。