《SOSは僕宛てに》-4
翔子が僕に勧めた本は、村上春樹の〔ノルウェイの森〕だった。今にして思えば、中学一年生が〔ノルウェイの森〕とは…ませていると言うか、早熟と言うか…。とにかく、僕は流されるままに〔ノルウェイの森〕の上下巻を買い、彼女も村上春樹の新刊を買った。僕はその日の内に上巻を読破した。衝撃的だった。最初は翔子を失望させないため、教科書を読むような退屈な気持で本を開いた。読み進めるにつれ、僕が今まで読んできた本は何だったのかと思った。中学生に村上春樹の作品を完璧に理解できる読書力が在るはずもないが、それが間違いなく、芸術と呼べるものだと言う事は分かった。
登場人物は皆、個性的で、人間らしい影が在った。時折、中学生には相応わしくない濡れ場も在ったが、それらは感傷的に、言わばプラトニックに表現されており、不思議と不純なものは感じなかった。翌日、僕は部活の休憩時間に、翔子に感想を聞かせた。翔子には友人が多かったが、小説の感想を伝え合うような友人は居なくて、僕もそれは同じだった。それから僕等の関係が始まった。面白い小説を見付けたら教え合った。部活後、一緒に二人で本屋に行くようになるまで、さほど時間はかからなかった。けど、それ以上の関係に進展する事はなかった。いくら〔ノルウェイの森〕を読んでいるとは言え、健全な中学生同士の交際から一歩を踏み出すには、僕等は余りにも幼すぎた。翔子は時折、病弱な妹のために、易しめの本を買って帰るという優しさも見せた。明るくて聡明で優しく、僕はそんな翔子が好きだった。
しかし、結局想いを告げる事はないまま、翔子は転校して行った。僕は翔子が居なくなり、心にぽっかりと穴が開いた気になった。その穴を埋めるように、小説を読む事に没頭した。僕が今朝、翔子と再会した時、昔の想い人であるにも関わらず思い出せなかったのは、多分、そこから来ているのだと思う。傷を深めないために、想い出を胸の奥に閉ざしてしまったのかもしれない。思えば、僕が対人関係に塞ぎ込むようになったのは、それからだった。それが小説の世界に入り浸ったせいなのかどうかは、分からない。けれど、翔子のせいにするつもりはなかった。何が原因なのかは分からないが、彼女は今、心に傷を負っているようだった。きっと、この五年間の間に、あの明るい少女を不登校におとしいれる何かが在ったのだ。僕はそれが知りたいと思った。翔子の力になりたいと思った。
夕刊配達の仕事を控えた僕は、大学では三限目までしか講義を受けられなかった。寮に帰り、作業服に着替え、すぐに仕事に出た。
夕刊の時はいつも体が重いのだが、今日は違った。別れ際の翔子の笑顔を思い出す。早く行ってやりたいと思った。いつもの団地に入り、新聞を手早く配る。バイクを走らせ、翔子の居る団地へと向かった。 僕の姿が目に入ると、翔子は瞳を輝かせて手を振った。やはりあれから学校へ行っていないのだろう。今朝と同じパジャマ姿だった。「はい。夕刊です」 「ご苦労」 翔子は微笑みを絶やさぬまま新聞を受け取る。「服…着替えたほうが良いと思うよ」 僕は翔子のパジャマを指差して言った。 「あはは…めんどくさくて」 翔子はそう言うと恥ずかしそうに頬をかいた。僕も笑った。なんだか、随分と久しぶりに笑ったような気がした。
「あっ…そうそう。村瀬さんに渡したい物があるんです」
翔子はそう言って一冊の文庫本を取り出す。
「…『光の末』?作者は…聞いた事ないな」
「この前、古本屋で見付けたんです。なんとなく買って読んでみたら、これが結構面白くて、村瀬さんにも読んでもらいたいなぁ…って」
「ああ…借りていいの?これ」
「是非、どうぞ」
翔子が新聞の代わりに本を手渡した。
「ありがと。帰ったら早速読ませて貰うよ」
僕は本を受け取って言う。すると、何故か翔子は
「フフフ…」
と含み笑いを漏らした。
「…何だよ気持悪いな」
僕は少し引いた。
「なんか…昔に戻ったみたいだなぁ…って。ちょっと思ったんです」
と翔子が言った。
「私たち、しょっちゅう小説とか貸し借りしてたじゃないですか?最近は…なかなかそう言う事なかったから…なんか嬉しくて」
嬉しそうに、しかし、どこか寂しそうに翔子は笑った。それは、昔を思い出して懐かしむのではなく、過去に残してきた幸せに捕らわれているようで、僕は少し悲しくなった。あるいは、それは僕も同じ事かもしれないけど…。