和州記 -或ル夏ノ騒動--5
「…『あれ』以外に思い浮かばない」
「あ、『あれ』って何や?」
茸の一件のことを、一紺は全く覚えていない。
翌朝茸料理を出した宿主から、催淫茸を間違えて出してしまった話を聞いた一紺。
自分がそれを食べたことやそれからどうなったのか、執拗に一紺が訊いてくるものだから、竜胆もあの夜のことを彼に話してやった。
しかし多くは語らなかったし、彼は自分がどれだけ竜胆を求めたのか知る由もない。
だから、彼を責めるわけにもいかないのだ。
勿論、まだ竜胆に子どもが出来たとも断定出来ない。
ただ、毎月来る筈のものが来ないだけだからだ。
もしかしたら、単に遅れているだけということもある。それももしかしたらの話だが。
「……」
「でも、出来たとしたら」
青くなった竜胆を慰めるように、一紺は彼女を抱き締める。
そして彼は暗緑色の彼女の髪に顔を埋めた。
「俺のガキ…なんやろ?」
「あ、当たり前だ!」
顔を真っ赤に染める竜胆を抱き締める腕に少しだけ力を込めて、一紺は彼女の耳元で呟いた。
「…嬉しい」
「馬鹿…」
怒ったような言葉だが、それが単なる照れ隠しであることを一紺は知っている。
竜胆は瞳を伏せた。おのずと触れ合う、唇と唇。
二人にとって、幸せな一瞬であった。
――実感はなかった。
子が出来たと言うことも、自分が子を産むことも。
しかし言いようのない気分の悪さを感じる度、それらを認めなければならない気がした。
――何より不安だった。
二人の旅は勿論大変なこともあるが、多少の辛さも竜胆にとっては気にならないものだった。
側にいつも愛する人がいて、自分を愛し、そして抱いてくれる。
愛する者を想い、愛する者を抱く。
愛する者に想われ、愛する者に抱かれる。
彼等にとって、これほど幸せなことがあるだろうか。
しかし、本当に彼女が身篭っていたなら旅を続けるわけにも行かないだろう。
どこか村か街かに落ち着いて、そして一紺はまず堅気の仕事を始めなければ。
「でも俺、正直言うて自信ないわ」
夕餉、握飯を手に一紺は溜息をついた。
その言葉に竜胆は苦笑して言う。
「大丈夫、期待してない」
「それはあまりな言い方や…」
早々に握飯を平らげると、一紺は布団に寝転がった。
天井の木目を眺めつつ、彼は言う。
「せやな…はっきりするまで身体はあんまり使わん方が…って竜胆?!」
一紺はばっと飛び起きた。
彼の視線の先には、真っ青な顔の竜胆がいた。
気分悪そうに、彼女は口元を押えている。
「き、気持ち悪いんか?な、りん…」
「ッ」
彼の言葉を遮って、竜胆は立ち上がると忙しなく部屋を飛び出す。
拍子に竹筒で作られた水筒が横になり、ばしゃりと中身がこぼれ出た。
残された一紺は動揺を消せないまま、こぼれて床に滲みる茶もそのままに彼女の後を追った。
「竜胆!」
「う…」
宿屋の裏でえずく竜胆に駆け寄り、その背を優しく撫でてやる。
荒く息を吐く竜胆に、一紺は声をかけた。
「なあ…お前、ほんまに…」
「うるさい!」
彼女は一紺の手を振り払うと、宿へ向かって走って行く。
おそらく、妊娠しているかもしれないと言う不安が大きくなり、気が動転しているのだろう。
来るべきものが来ない。
吐き気を催している。