夏色の宿題-1
蒼穹は抜けるように澄み渡り、燦然たる陽光を滋養として眩しく輝いていた。前方を見渡せば、悠久の彼方まで広がるコバルトブルーの海洋が視界を覆い、夏の陽気な気配で僕を満たす。大きく息を吸い込んだ。肺いっぱいに塩気を含んだ酸素を取り込み、吐き出す。穏やかな潮風が、汗ばんだ躰を愛撫するように吹き抜けていった。さざ波の声が優しく耳朶に触れ、僕は心地良さに目を細めた。
「気持良いね…」
囁くような声。隣を見遣ると、麦わら帽子を目深に被り、白いワンピースを着込んだ少女が僕と同じように海を眺めていた。綺麗な小麦色の肌が、夏の光を浴びて輝くようだった。「せっかくの快晴なのに、午後からは雨みたいだよ」僕は言った。「嘘?こんなにもいい天気なのに…」少女は麦わら帽子を脱ぎ、青空を仰いだ。その視線は雨雲を探していた。
「君が午前中に起きてるなんて、雨じゃなきゃ雪が降るね」
僕は笑いながら言った。
「ああ、そう言うことか」
少女は苦笑した。ショートカットの髪が、南風に微かになびく。
「おはよう、百合」
僕は海に眼差しを戻して言った。おはようなんて台詩は、今日初めて使った。
「おはようなんて、何か久しぶりに聞いたな…」
百合はそれに、指先で帽子をくるくるともて遊びながら答えた。その顔はやはり、柔らかな微笑み混じりだ。
「昼夜逆転の生活を送っていれば、そりゃそうだろう」
僕は少し呆れながら、百合の指先から帽子をひょいと奪って被る。麦わらの懐かしい香りがした。
「あっ!返してよ!」
「それは僕の台詩。元々この帽子は僕のであって、君にあげた覚えもなければ、貸した覚えもない」
「あなたの物は私の物なのよ!」
百合は憤慨して手を伸ばすが、僕が高々と帽子を手に掲げると、頭一つ分は背の低い彼女にはとても手が届かず、ぴょんぴょんとジャンプして帽子を求めた。
「ジャイアンか君は…」
「のび太のくせに生意気よ!」
「おいおい、成りきるなよ」
僕は辟易して百合に帽子を返した。返すとは言っても、僕の物なのだが…。百合は僕から帽子を取り返すと、満足げにそれを見つめる。
その子供のような眼差しを見ていると、僕は次第に麦わら帽子なんてどうでも良くなってきた。元々好んで使っていた訳でもないし。
「やるよ。それ。そんなに気にいったなら」
言った瞬間。僕は百合の喜ぶ顔を想像したが、実際には、彼女は実に怪訝そうな表情を浮かべるのだった。
「だから、私は既に貰った気でいたんですけど」
百合はぬけぬけと言い放ち、小首をかしげる。成程。君はそういう女性だったね。僕は思わず苦笑し、白い砂丘に腰を下ろした。百合もそれに倣い、帽子を被ってぺたりと座り込む。僕たちはしばらくの間、言葉を知らないサンドクラフトさながらに、茫洋たる青海を黙然と眺めていた。僕は孤独を好むが、彼女と一緒にいるときは、人間関係特有の煩わしさは感じなかった。居心地の良い沈黙だった。きっかけは何だったのか、百合が唐突に静寂を破った。
「ねぇ、この前私が出した謎なぞは解けた?」
彼女は僕の顔を覗き込んで言う。僕の胸が、少しだけ鼓動を早めた。それを悟られないように、僕は百合の頭上の麦わら帽子を見つめながらいった。
「映画からとったやつだよね。ユダヤ人虐殺が背景の、恋愛映画」
「そう。もう一度確認するけど、あなたは本当にその映画を見たことはないのよね」
「神に誓って、見てないよ。映画はハードアクション専門なんでね。それも、映画はTVでしか見ない」
「うわっ!無粋な男…」
何故アクション映画しか見ない男が無粋なのか、気にはなったものの、取り敢えず僕はその心外な発言は無視することにした。