飃の啼く…第22章-3
「飃…平気だから…。」
堅く握られたままの彼の手をとって、振り返らずにその場から離れた。彼がこんなに怒っている時には、例え振り返るだけでも飃の怒りを煽る事になるだろうとわかっていた。これ以上の情けを男にかけるのは得策ではない。もちろん、双方にとって。
飃を引っ張って、ホームの端まで来たとき、歩いていた方向とは逆に手を引かれて私は飃の胸に倒れこむようにして抱きとめられた。
「何故止めた?」
その声には恐ろしいほど感情がこもってなかった。
「だって…あれで十分懲りたと思うし…もう二度と痴漢なんて…」
「そうではない。」
飃が遮った。
「あの男がどんな女に手を出そうと知ったことか…だが、あの男はお前に触れた。それも邪な目的を持って。それを許しておけというのか?」
飃の手は、また握られていた。
「お前はいつか、自分が己に所有されている事を否定したな、さくら…だがある意味では、お前は己の所有物だ。それが間違っているとは思わぬし、撤回する気もない。お前は己の物だ。己がお前の物であるのと同じ様に。」
そして、いくらか落ち着いた様子で、深く息を吐いた。
「他の男の肌の温度がお前に伝わると考えただけで虫酸が走る。だからさくら、この事に関しては、己に温情を期待するな。」
「…了解。」
飃の目に再び優しい光が戻ったのを見て、私も微笑む。見計らったように訪れた電車はいくらか空いていた。それを見て安心したのは飃だけではなかった。
「…久しぶり。」
墓石は、やっぱり冷たかった。日に日に夏に近づくこの季節は、全てのものがまるで赤く熟れてゆく果実みたいに、熱を持つが当然のような気がしていたけれど。実家の近所にあるお寺の墓地にあるこのお墓は、おじいちゃんがよく訪れてくれるお陰できれいだ。飃は、気を利かせてどこか別のところで時間を潰している。その優しさが嬉しかった。これはとても大切な…ごく個人的な時間だから。
「あっという間に一年がたっちゃったねぇ…。」
線香の煙が物憂げに揺れる。お墓に話しかけたって、気休めに過ぎないとわかっていても…こうしなければ帰った後で後悔するような気がして、ついいつも話しかけてしまう。
「私、結婚したんだ…あ、知ってるか。でも会ったことはないでしょ?飃って、凄く素敵な人だよ…時々おっかないけど…」
そして、左手の薬指に、我知らず触れる。
「私のこと、大事にしてくれる。」
その出会いへと導いてくれたのが、他でもないこの二人のお陰なのだということ…。それがまるで、両親が遺した何かの遺志であるかのように…そう、思いたかった。それが、二人の愛情の証であるかのように。
…その彼が引き連れてきた戦いの毎日については…考えないようにするとして。
近くの公園で、子供を呼ぶ母の声が聞こえた。